自分自身との対話・その八十二
私は歌謡曲が比較的好きであります。商売柄、酒席の流れでよくカラオケで歌ったからです。自分で下手ながらに歌っていると、歌う曲などもよく聞くようになり、プロの歌手がどのように歌い表現しているのかを、注意して聴くので、歌一般への理解も深まるのでしょうか。歌うのが少しずつ上達するに連れて、耳の方も肥えて行くようです。 私はプロの歌手では藤 圭子と ちあきなおみ が好きです。歌が上手いのはプロですから当たり前なのですが、こちらのハートに直に響いてくる所が実によい。美空ひばりも勿論好きですが、聴き過ぎて今ではやや食傷気味であります。自分でカラオケを歌う時には、嘗ては五木ひろしの「細雪」を好んで歌っていました。 前振りはこのくらいにして、今回は人間の魅力というような事について、書いてみたい。そして、またもや学習塾での生徒との遣り取りから入ります。私の御世話になった学習塾では、生徒が自分の担当講師を指名出来るのが売りでしたから、生徒たちは当然に憧れの気持ちを唆られるような、恰好いいお兄ちゃんや美形のお姉ちゃんを大体において選択するようでありました。無論、無意識の裡にでありましょうが、結果としては歴然とそうなっていることに、入塾して直ぐに気づかされた。何しろ海千山千の謂わば擦れっ枯らしみたいな老人ですから。所が、私にも望外な指名が集中したのですから、子供の心理も意外と複雑なのでありました。 さて、大勢の担当生徒の中には多数の女子生徒が混じっていた。男子四に対して女子が六ぐらいの比率でしょうか。その女子の中で、成績はあまり振るわなくとも、人間性と言う点で光る生徒が何人もいました。私はそうした生徒に折を見て、次の様な話をしたものです。 女性は年頃になり、適齢期を迎えると、お母さんを始め身近な大人の女性達を見習って、お化粧をするようになる。誰もそれをするなとは言わないけれど、お化粧は飽くまでも一時しのぎの応急処置みたいなもので、過度の期待を持ったり、厚化粧に頼ったりしてはいけない。昔の美人は大概、化粧は身だしなみ程度に抑えて、自然の侭の素肌を大切にした。素肌は天が人々に公平に与えた天然自然の宝物ですから、それを大切に手入れするのは当然の事でしょう。私が強調したいのは、外見の見かけばかりに気を取られて、内面の素肌である、心の手入れを怠る人が大勢いるので、心配なのだ。内面の人の目に見えない心の手入れを怠っていると、年を取るに従って外見の醜さが倍加して、厚化粧ではとても隠しきれない、目も当てられない酷い事になってしまう。オバタリアンなどとひどい悪評を被っている中年以上の婦人たちは、皆この心の手入れを怠った怠け者達の成れの果てなのだ。 私は、長年テレビに関係した仕事で生きて来たので、化粧品メーカーにも大変御世話になっているので、別に化粧品メーカーの妨害をするつもりはないが、お化粧はほどほどに、手間暇が多大にかかる内面の方を疎かにしてはいけないことを、強調したまでであります。 世の中には、希にではありますが、この大変な事に打ち込んだ結果、一般に醜いと言われるシワやシミや白髪が、それこそ宝石の如くに光り輝いている人が居るのです。正に外見と内面とが相叶える事の証明の様な存在です。 人は誰でも易きに就きやすい。手間暇のかかることは出来るだけ避けて安直に行きたい。思うことは誰もが一緒ですから、容易い方を選択する。 此処で、昔話を思い出して見て下さい。正直で心優しいお爺さんは雀のお宿から帰る際に、お土産に出された二つの葛籠(つずら)のうち、小さい方を選びましたが、意地の悪い腹黒婆さんは欲深さの本性を出して、大きな葛籠を貰いましたね。結果は、皆さんご存知の様に、婆さんは散々な目に遇ってギャフンでしたね。他人には親切にしよう、また、艱難は爾を玉にするのだから、苦労は自分から買ってでもしよう。昔の人々が露ほども疑わなかったこの世の真実でありました。 今はどうでしょうか。便利第一の世の中で、その代表的な位置にあるのが、便利第一主義の権化の様なお金であります。その代償として私達は一体何を失ったか? 私に言わせれば、人間の美徳の全てを失わさせてしまった。まるで、化粧する手軽さで、困難な内面を磨く仕事を放棄した、祟のようではありませんか。 何度でも言いますが、何かを選ぶと言う事は、その他の諸々の大事な物を、それと気づかずに易々と捨てるという事を意味している。この事の持っている意味をとことん噛み締めてみよう。早い話が、飛行機や新幹線は自慢の速さを誇っているけれども、私たちの幸せや幸福の度合いは、どれだけ増大したと言えるのでのでしょうか。一考するだけの価値はあるのではないでしょうか。 私たちの欲望には限(きり)というものがありません。飲めば飲むほどに喉がヒリヒリと乾く悪魔の水になぞらえる事が出来るでしょうか。節度を保ち、足るを知るのは、人生の達人にして始めて可能な事。凡人には逆立ちしても及ばない、極北に美しく輝く星の様な物であります。 お金という巨大なマモンもまた、手にすれば手にするほど更に多くを求めたくなる、恐ろしい邪神であります。この邪神に一旦とり憑かれたが最後、死ぬまで追求を止めることが出来ない。 私などは、親の代から貧乏神に愛されて、幸か不幸か今日まで悪戦苦闘の連続でしたが、有難い事に幸せという美神には見放されてはおりません。いえ、いえ、負け惜しみなどでは決してありませんで、苦しさに耐えながら耐乏生活を長年続けておりますと、通常の苦しさを苦しいとは感じなくなって来る。何とも言い難い安心感の様なものが生まれている。 ある日突然に、目からウロコが落ちた如く、一種の安心立命に似た心の安らぎを得ている自分に、はっとばかりに気づかされる。この辺の機微については、実地に体験して頂くしかないのですが、お金持ちには理解し難い心持ちかも知れませんね、実際の話が。 また話を前に戻しましょう。人間として一番に大事な心・内面の魂を磨くには、一体どうしたらよいのか? 特別な学校や、難解な教科書を求める必要などありませんで、参考になる物や反省材料には事欠きません。誰でもよい、身近にいる人々をよくよく観察すればよいのです。世の中には模範になるような立派な人物は非常に少ないけれど、唾棄すべき嫌な、そして自然に嫌悪感の生まれる醜悪な人間は、掃いて捨てる程に存在している。その人々の嫌な考えやら、行動の一つ一つを反面教師として利用すれば良いだけです。 後は、根気よくその作業を継続する。この一事に尽きます。継続は力なりで、あなたの努力は必ず報われること請け合いですよ。ふうーん、成程、だけで私の言葉を受け流さないで下さい。今の混濁し、堕落し切った娑婆世界を清浄にするためには、一人一人のこうした小さな積み重ねがどうしても必要なのであります。世界平和を願うデモや、様々な分野での偉人や賢人の天才的な活躍も大切なのですが、誰もが謙虚に世界の一隅でたゆまずに続ける、こうした目立たない「平和世直し運動」こそ、最も今必要なのであり、切実に要請されているのだと、私は確信しております。 元はと言えば、私達自身が望んだから現出した現状であってみれば、私たちの望みや希望の持ち方次第では幾らでも矯正ややり直しは可能なのですから、どんな時にも絶望したり、捨て鉢になったりせず、明るい明日、希望に満ちた未来を手元に引き寄せられる。そう信じながら続けるあなたや、私達の小さな営みが何物にも増して神仏の御加護に報いる道である事を、固く信じて前進しよう。私も、及ばずながら、耄碌した老躯を引っさげて、小さいけれども大事な「一隅を照らす」行為の輪に加わろうと、密かに決意して、自分なりの努力を日々忘れないでいる。 若い人の特権は、不可能と見える物を不可能とは見ないことであろうと、私は考えますが、御自分の目と耳と、何よりも持って生まれた柔軟で柔らかな頭脳と、美しい魂とを最大の武器として、目の前に立ち塞がっている諸悪と困難とに、果敢に立ち向かおう。 私はお見かけ通りに、老人でありますが、心は、魂は少年のままで生きております。生半可な大人になるくらいなら、子供のままがいい。これが私の開き直った精一杯の意地であります。客観的に見れば年寄りの冷水と思われる事でも、私自身は真剣そのもの。動かない山でも、こちらの意気込み次第では動いてくれる。この、まともな大人や世故に長けた老人には無い蛮勇を奮って、心ある少数の人の純粋な心の琴線にダイレクトに訴え掛けてみたい。そう思い、実践しているこのブログであり、源氏物語の翻訳であります。 私は自分の行動なり考え、つまり、今の時代を最悪最低と捉えて、今の時代に生かされて在る人間の一人として、この様な世の中でも一人確固たる幸福を忝くした者として、御恩報じの為だけでも、微力を尽くす振る舞いをしたい。それを実行に移さないことには、気が済まない。そうした思いで一杯なのであります。 効果があるか、好結果が出るかは二の次で、兎に角も実行する。今自分に出来る精一杯の努力を続ける。それだけなのであります。 私の現代に対する危機意識の強さは十代の頃から始まっている。生きていて無条件に辛い。こんな世の中に自分はどうして呼び込まれてしまったのか。自分が妻を得て、妻から強く私達の子供を儲ける事を迫られた時に、私は言ったものだ。「私は子供が大好きだ。まして自分の子供となったらなお一層好きになるだろう。だが、生まれる前から好きな自分の愛子を呼び出すにしては、現世は余りにもキツ過ぎる。可哀相に過ぎるのだ」と。 妻は呆れてしまったようだ。変わり者だとは感じていたが、ここまでの変人とは、正直思わなかったのであろう。私の世の中嫌いは変わらないままに、妻に押し切られる形で、二人の息子を儲けるに至った。成人後に、二人の息子にこの話をしたところ、「ふーん、そんな事があったんだ。でも、生まれて来てよかったと思うよ」と、長男も、次男も異口同音に答えたので、私は内心でほっと安心のため息を吐いたのだった。キリスト教の神は、産めよ、殖えよ、地に満てよ、と言われたとか。 こうして、神から本質的に嘉(よみ)された人間の生は、無条件に良いものであるに相違ない。私が臍曲がりであり、偏屈なだけなのであろう。今はただ、神の祝福を無条件で受け入れ、その意を受け止めようと思うのである。