チェーホフ に 習う
女が男の友達になる順序は決まっている。まず最初が親友、次が恋人、最後にやっとただの友だちになるということだ。 結婚するのは、二人とも他に身の振り方がないからである。 人間は好んで自分の病気を話題にする。彼の生活の中で一番面白くないことなのに。 マナーというものは、ソースをテーブルクロスにこぼさないことではなく、誰か別の人がこぼしたとしても気にもとめない、というところにある。 嘘をついても人は信じる。ただし権威をもって語ること。 善人は犬の前でも恥ずかしさを感じることがある。 良き夫になることを約束する。ただし、毎晩は現れない月のような妻がよい。 孤独が怖ければ結婚するな。 祝日を待つように、あなたの回復を待ち望んでくれる人がいるならば、病気になるのも悪くはないものだ。 自らそうであると信じるもの、それで自分自身で幸福な人間が良い気分でいられるのは、不幸な人々が自己の重荷を黙々と担ってくれているからに過ぎない。 芸術家の役割とは問うことで、答えることではない。 孤独な生活をしている人たちは、心の中に何か鬱積したものがあって、機会があればそれを喜んで人に話したがるものである。 愛、友情、尊敬、どれをとっても、共通の憎しみほど人間を団結させるものはない。 千年後にも人間は「ああ、人生はなんというつまらないものだろう!」と嘆き続けるにちがいない。そしてまた同時に、今と全く同じように死を恐れ、死ぬことを嫌がるに違いない。 知識は実践するまで価値がない。 いいかね。もし我々が下の方の階段の助けを借りずに、一足飛びに最上段へ躍り上がる方法を見つけだそうものなら、その長い前段階は我々にとって、一切の意味を失うことになる。こういう不幸な考え方には、何の進歩も、学問も、芸術も、思想そのものすらありえないということを知らねばならないのだよ。 たとえ信仰を持っていなくとも、祈るということはなんとなく気の休まるものである。 飢えた犬は肉しか信じない。 教養ある人間は、他の人格を尊重し、したがって、常に寛大で柔和で腰が低いものである。 女への恋が冷める。恋から解放された感情、安らかな気分、のびのびと安らかな気分、のびのびと安らかな想念。 人間に理性と創造力が与えられているのは、自分に与えられたものを増やすためである。 男とつきあわない女は、だんだん色あせる。女とつきあわない男は、だんだん馬鹿になる。 結婚生活で一番大切なものは忍耐である。 優しい言葉で説得できない人は、いかつい言葉でも説得できない。 男が恋をするなら必ず純潔な相手を選べというのはエゴイズムである。自分にはありもしないものを女性に求めるのは、それは愛ではなく崇拝にすぎない。人間は自らと同等の者を愛すべきだから。 くすぶるな、燃え上がれ。 もし人生をやり直すのだったら、私は結婚しないでしょう。 学問のある人間が大勢集まってあらゆる機械や薬品を考え出したが、いまだに女性が原因で起こる病気の薬を考え出そうとした学者はいない。 愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。 書物の新しいページ、1ページ読むごとに、私はより豊かに、より強く、より高くなっていく。 真の幸福は孤独なくしてはありえない。堕天使が神を裏切ったのは、おそらく天使たちの知らない孤独を望んだために違いない。 人間の目は、失敗して初めて開くものだ。 平らな道でもつまずくことがある。人間の運命もそうしたものだ。神以外に誰も真実を知るものはいないのだから。 僕にとってごく当たり前の出来心であったものが、彼女にとっては人生における大変革になった。 僕の座右の銘 ― 僕は何も必要としない。 共通の憎しみほど人間を団結させるものはない。 誰に打ち明けたらいいのでしょう? 誰に訴えたらいいのでしょう? だれと一緒に喜んだらいいのでしょう? 人間は誰かをしっかりと愛していなければなりません。 一体、私たちはどんな一生を送るのかしらね。私たちって、どうなるの? 小説を読んでみれば陳腐なことばかり書いてあって、みんな分かりきったことばかりのように思えるけれど、いざ自分が恋してみると、はっきりわかるのよ ― 誰も何一つ分かっちゃいないんだってことが。人はそれぞれ、自分のことは自分で解決しなければならないんだってことがね。 文明、進歩、文化と呼ばれている階段をどんどん登って行きなさい。心からお勧めしますよ。でも、どこへいくのかって? 本当のところ、わかりませんが、しかし、その階段のためだけにでも、生きている値打ちはありますよ。 孤独な生活をしている人たちは、心中に何か鬱積したものがあって、機会があればそれを喜んで人に話したがるものである。 老人の厭世主義は外部からひょっこりやってくるのではなく、自分自身の頭脳の奥深いところからくるのだ。散々くるしみ、数え切れないほどの過ちをしでかしたあとで、下から上までの全階段を上り終わった時に、初めてやってくるのだ。 人間は好んで自分の病気を話題にする。彼の生活の中で一番面白くないことなのに。 恋、それは、私の自我が異性の客観に感ずる利己主義的な索引に過ぎない。 すでに生きてしまった一つのの人生が下書きで、もう一つのほうが清書だったらねぇ。そうすれば我々は、なによりもまず自分自身を繰り返さないように努力するでしょうね。 人間に理性と創造力が与えられているのは、自分に賦与されたものを増大するためである。しかし、人間は今日まで破壊するのみで創造した事がない。 人間こそが自分自身の幸福を創り出す。 あなた、手を接吻させてあげたら、今度は肩とおっしゃるでしょう…。 ひょっとしたらこの宇宙は何か怪物の歯の中にあるのかもしれない。 なんという大いなる幸福であろう、愛し、愛されるということは。 すべてを知り、すべてを理解しているのは、愚か者とペテン師だけである。 知識は人生で最も重要で素晴らしく、必要なものである。それは常に愛の高度な発現となり、それひとつだけで人間は自然と自己に打ち勝てるのだ。 書物を前にしては、すべては色あせる。 頼み事なら、金持ちよりも貧乏人にするほうが簡単だ。 死は悍(おぞ)ましいものだが、それでももっと怖しいのは、永遠に生き、決して死なないはずと感じる、あなたの気持ちである。 「結局は、真実が勝利を収める」と言われるが、それは真実ではない。 馬鹿の称賛を受け入れるより」、彼らの前から消えてなくなる方がましだ。 飲み物を渇望するときには海まるごと飲めるとさえ思うが、つまりそれが信仰である。しかし、飲み始めると全部でグラス二杯しかのめないのであって、つまりそれが科学である。 お金のように、人をなだめたり酔わせたりするものはない。たくさん持っていると、世の中が実際より良い場所に見えるものだ。 単純な質問を如才なく解こうとして、非常に複雑化してしまうのは不幸なことだ。我々は単純な解決策を求めるべきである。 私は、結婚すると人々が好奇心を失うのを見てきた。 愛すべき、甘く忘れがたい子供時代よ。なぜ永遠にに失われ取り戻すことのできない時間は、輝き華やいで、実際よりも豊かに見えるのだろうか。 一人暮らしをしている者はうつでも、心の中では何かを進んで分かち合いたいと思っているものだ。 辛い時期にのみ、自らの感情と思考とを使いこなすことがいかに難しいかを理解するようになる。 僕は君、人生が分からない、それで恐れているのです。ひょっとすると、僕は理性を失った病人かも知れない。正常で健康な人は、見たり聞いたりする一切のことを理解しているつもりですが、僕はこの つもり というやつを見事なくしてしまった。 アントン・チェーホフの作品には同時代のトルストイやドストエフスキーとは違い、ただ普通の人物が登場して、かつ事件らしい事件は起こらない。登場人物の内面に起こるドラマに焦点を当て、それを控えめな叙述、詩的な知覚、そして鋭敏な言語感覚によって表現する。これが所謂「チェーホフ的作風」と呼ばれる特徴になっている。 彼は短編小説と何本かの戯曲を書いて、四十四歳の若さで死んでいる。彼がこれらの形式にこだわったのは、物語よりもロシア人そのものを描きたかったからであると思われる。彼ほどロシア人の人間性に拘った作家はいない。そうした人間性は、無論長編小説の形式でも描くことができるが、短編小説や戯曲を通じての方が人間性の典型は描出しやすい。人間性の色々なパターンを限定された形式を通じて、典型的に示すこと、それがチェーホフの狙いだったようである。 彼の作品を通じて浮かび上がってくるロシア人には、一定の共通した特徴がある。男について言えば、己に自信がないために何をやってもうまくいかず、そのために始終自分や周囲の人間を責めているような情けない人間たちである。また、女は、これもまた自分に自信がなくそのために自己というものを持てずに、男にもたれかかって生きているような人間である。 そうした男女をチェーホフはさらりととしたタッチで描く。描いた男女は、彼の同時代人であったが、その同時代人たちがこのように情けない人間ばかりだったことを、チェーホフは批難するような目では見ていない。たしかに、あまり褒められたことではないが、ロシア人のそうした生きかたにも、一定の意味はあるのだ。 それを人はロシア的と言うことができる。よく言われることに、ロシアは半分はヨーロッパだが、もう半分は野蛮だということだ。ロシアは十五世紀くらいまではタタールのくびきの下にあった。そうした歴史はロシア人を自立した方向に働いた。男女ともにロシア人に強く見られる非自立的な傾向は、そうした歴史に根ざしている。この非自立的傾向が、ロシア人の野蛮さの源泉だった。その上に、チェーホフが生まれた頃まで「農奴制」が残っていた。少数の旦那衆と大多数の奴隷からなる社会である。そういう社会では自立的な人間が育つことは殆どない。奴隷が自立した人間になれないのは無論、奴隷の主人も奴隷にその生存を依存する限り、自立することはない。 そうした社会では、成員の殆どすべてが自分というものを持たない卑屈な人間になるほかはないわけだ。チェーホフが描いたのは、そうした人間たちである。