過去に習う パート2 その六
○ いまはん本店・入り口付近(数日後) 外国人家族が予約なしで、店を訪れたので、従業員たちが対応に苦慮している。外国人の客「私達、リザーブなしですが、オーケーですが」と、非常に遠慮がちである。と、奥からみどりが小走りに応対に出てきた。みどり「ユーアー、ウエルカム。リザーブなし、オーケーです。ディスウェイ、プリーズ」と、たどたどしい英語ではあるが、手際よく客室に案内する。○ 同 ・ 個室 みどりが外国人の親子四人の客を案内してくる。外人客「(口々に)オー、ワンダフル!」などと喜びを表現しながら椅子席につく。みどり「ウィハブ、セットメニュー、オンリー」母親「アイ、シー( I see )」みどり「すき焼きコース、しゃぶしゃぶコース、アンド、ステーキ・コース」子供達「すき焼き、アイ・ラヴ・イット」父親「すき焼きをお願いします」みどり「畏まりました」 直ぐに料理が運ばれて、楽しい一家団欒の食事が始まった。みどりや仲居たちが箸の使い方などを懇切丁寧に説明する。○ 同 ・ 店の前 みどり達が外人一家を送り出している。母親「サンキュー、ソーグッド」と、みどりに握手を求めて来た。ニッコリと笑顔で握手するみどりに、父親「 Such a cute woman, ever so charming !」と、思わず嘆声を発した。みどり「サンキュウー、ベリーマッチ」と、深々と頭を下げる。○ いまはん本店関係者のなにげのない日常がフラッシュ風に紹介される。―― 浅草女将の会が隅田川を行く屋形船の船中で開催されている。メンバーの中に浅草いまはん本店社長・高岩千代の顔もある。―― 都心近くにある釣り堀で、中学生の息子とのんびり釣り糸を垂れている総料理長・今野清三がいる。あまり釣果(ちょうか)がないように見えるが、一向に気にしている様子がない。―― 新人二人が仲良く昼間のカラオケを楽しんでいる。全く屈託がないのだ。―― 中堅料理人の森 洋二が三ノ輪の自宅から自転車通勤の途中である。軽やかなペダルを踏む足さばきである。―― ベテラン仲居・中村昌代が知り合いの親子連れを案内して花屋敷の遊園地でジェット・コースターに乗っている。童心に戻って誠に、無邪気そのもの。―― レジ係の倉持はなが自宅近くの公園でウォーキングをしている。ゆっくりと急がずに周囲の風景を楽しむような、彼女独特のスタイルなのだ。○ いまはん本店・広間の客室 時分時で賑わっている広間のほぼ中央の席に初老の男性客が、中居に案内されて座を占めた。 ―― 時間経過 先程の客がかなりの酩酊ぶりで、追加のお酒を注文する。仲居「お客様、ラスト・オーダーの時間で御座いますが、以上で宜しゅうございますでしょうか」客「ラスト・オーダー、ああ、もうそんな時間になったのか。それじゃあ、特上のステーキとお銚子をもう二本、いや四本お願いしておこうか」 驚いたように客の顔を見て、仲 居「お客様、本当に大丈夫なのでしょうか、もうだいぶお酒の方もお召し上りでございますが…」客「何、構わん。どんどん運んで来てくれ」 ―― 更に、時間経過 広間には初老の例の客だけがいて、他のお客は誰もいない。しかもその客は空になったお銚子を何本も前に並べて、座ったままで大きな鼾をかきながら、寝入っている。周囲を遠巻きにして、困り切っている仲居たちがいる。 と、そこへ知らせを受けて自分の持ち場のフロアーから、降りて来たみどりが姿を現した。チーフの仲居「申し訳ございません。みんなして何度もさっきから身体を揺すったりして、何度も声をかけたのですが……」みどり「そうですか。皆さん、お疲れ様でした。ここは私が引き受けますので、全員上がって頂いて結構です」と、部下たちを帰し、客に近づくみどり。みどり「お客様、もし……」客 「 (無 言) 」 鼾の音はなく、すうすうと言った静かな寝息に変わっている。 と、そこに総料理長が姿を現した。総料理長「差し出がましいようで恐縮なのですが、今日は社長も出張でお留守ですし、警察の方に連絡したほうが何かと安心なのではないかと、思いまして」みどり「お疲れのところを、ご心配頂き、ありがとございます。サービス部の皆さんも同じ意見だったのですが、(客の方を目顔で示しながら)どうやら御病気ではなさそうですし、なにか深い事情があるのかも知れませんので、もう少し様子を見てみたいと思っているのです。察するところ、お人柄も悪いお方とは思えませんので、もう少し様子を見てみたいと思っているのです。察するところお人柄も悪いお方とは思えませんので」総料理長「そいですか。心配のあまり失礼なことをを口にいたしました。もう少し板場の方で、仕事が残っておりますので、何かありました時には、お声をおかけください」みどり「お心遣い恐縮でございます」と、総料理長に一礼するみどり。 ―― 時間経過 広間の初老の客が居る中央付近の灯りだけを残して、他の照明は消えている。今は、テーブルの上に両腕を載せ、その上に顔を埋めるようにして寝入っている客の近くに、氷水の入った水差しとコップがお盆に乗って置かれている。少し離れたところに正座して、客の様子を見守っているみどりの姿がある。 突然、むくっと顔をあげた客が、その儘よろよろと立ち上がり何処かへ行こうとした。みどり「お客様、どうなさいました」客「えっ、ああ御姐さん、ちょっとトイレへ行こうと思ってナ」 みどりは客を介添えするようにトイレへ案内する。 用を済ませた初老の客は自分から確かな足取りで元の席に戻り、その儘前のように寝ようとした。みどり「お客様!」、少し大きな声で呼びかけた。すると客は初めて正気に返ったように、ぎくりとして背筋を伸ばし、みどりに視線を向けた。 客 「誠に、誠に、申し訳ないことを致しました」 弾かれたように、向きを変え、床に頭をこすりつけて詫びている。みどり「まあ、お客様。どうかそのお顔をお上げになってくださいまし」 客は尚も顔を床に擦り付けながら、客 「わしは客などではない、性質の悪い唯の無銭飲食にしか過ぎない。どうか許してください。いや、直ぐに警察に通報して、逮捕させてください。お願いいたします」みどり「お客様、どうか落ち着いて下さい」と、優しい笑顔を浮かべてコップに冷水を注いで差し出した。みどり「酔い覚めの水は千両もするそうですが、これは私からのサービスですから、お代は頂戴致しません。どうぞ遠慮なく召し上がれ」 客は信じがたいといった面持ちで、暫時みどりの手元を見守っていたが、みどりの手から押しいただくようにコップを受け取り、一気に飲み干した。 みどりはもう一杯いかがと言うように水差しを示して見せている。 客の眼には感激の涙が溢れるほどになっている。黙ってコップを差し出した。みどりがそのコップになみなみと水を注ぐ。今度もまた、一気に飲み干した客。客 「あなたは、御姐さんは観音様の化身の様なお方です。本当に、嬉しくて、嬉しくて、感謝の言葉もありません」と、両の肩を震わせながら男泣きに泣いている。 しばらく間を置いてから、みどり「何か深いご事情があっての事と、拝察いたします。しかしお客様、ようこそ、ようこそ、私ども浅草いまはん本店にお越し頂きました。 ( 相手が何か言いかけるのを、手で制して) 店長以下従業員一同に成り代わりまして篤くお礼を申し上げます。また、本日のお代は不肖私が立替させていただくつもりですので、何時なりと、ご都合の宜しい折にお支払い戴きたく存じます」 相手の客はただもう言葉もなく、滂沱の涙である。