自分の過去に習う パート4 その六
J M C のオフィス (深夜) ガランとした部屋。 自分のデスクにうつ伏せになり、仮眠を取っている一太郎。突然、電話が鳴った。ガバッと撥ね起きて電話を手に取る一太郎。一太郎 はいッ……、何だ、間違い電話か。 (デスクの上に置いた侭の自分の携帯電話に視線を遣り、しばし思案する) ―― 時間経過 ―― 誰もいない部屋に一太郎だけが居る。深夜である。仮眠を取ろうとするが、眠れない。時々、デスクの上の携帯に目を向ける。まだ、迷っている。 最寄りの 駅 (翌日 の夜) 睡眠不足と疲労とで憔悴した表情の一太郎が出て来る。 住宅街の通り (数分後) 重い足取りで歩く一太郎の足が止まった。見ると正装した桜子が角を曲がろうとしている。ハッとなる一太郎。 桜子の後を追う。 表通り 先を行く桜子が手を挙げてタクシーを止め、乗り込んだ。続いてやって来たタクシーに、一太郎 済みません、あの先を行くタクシーの跡を追いかけて下さい。運転士 はい、畏まりました。 一太郎の表情が固い。運転士 失礼ですが、お客さんは興信所の関係の方でしょうか。近頃に始まった事ではありませんが、増えているそうですね、つまり、人妻の火遊び、ですか…。こう言う稼業をしていますと、たまにですが、明らかに水商売の女性ではない素っ堅気の女性から誘われることがあるのです。私、お金がないので身体で払うわってね、本当なんですよ。 一太郎は無言である。 先行するタクシーから降りる桜子。続いて、少し手前でタクシーを降りる一太郎。 暗い道 先を急ぐ桜子を追う一太郎の緊張した顔。 メイクした桜子の顔は息を飲むほどに美しい。 神社の境内 拝殿の前で、一心に祈りを捧げる桜子。 桜子の祈り「夫が、一太郎がセールスの仕事で成功致しますように、心よりお願い申し上げます」 離れた所から妻の姿を見守る一太郎。言葉は聞こえなくとも、彼女が何を神に祈願しているかは、ストレートに伝わって来る。一太郎の見た目の桜子の姿が、涙で滲んで、霞む…。 郊外の駅 (数日後) 列車から降りて来る一太郎。一太郎のモノローグ「次の日曜日、私は娘の美雪が働く果樹園農家を訪れた」 道 地図を見ながら、山の方に向かう一太郎。 果樹園 農家の主人から指導を受けて、真剣そのものの表情で作業に打ち込む美雪の姿がある。 少女に案内されてやって来た一太郎が足を止め、働く娘の姿にしばし見入る。一太郎 …… その顔に満足気な笑みが浮かぶ。 サッカー場 観客席に一太郎と二男・正次の楽しそうな姿がある。一太郎のモノローグ「次の日曜日にも、私は家族の一人と正面から向き合う時間を持った」正次 ナイスシュート! あッ、外れたか…、残念。 父親の一太郎もゲームの内容に惹き込まれ、次第に息子以上に熱中している。 日本家・台所 (別の日) エプロン掛けした一太郎が慣れない手つきで包丁を持ち、料理をしている。その表情はかなり真剣だ。 同 ・ 二階の健太の部屋 ドアをノックして、一太郎が入って来た。一太郎 母さんから、カレーライスが好物だって聞いたので、作ってみたんだ。 ベッドの上に横になっていた健太がやおら起き上がり、少しムッとした表情ではあるが、父親の差し出したカレーの皿を受け取った。一太郎 あまり自信はないけれど、食べてみてくれないか。健太 うん、…… (と、一口食べた後で、二口、三口とスプーンを口に運んだ) 旨いよ、有難う。一太郎 そうか、それは良かった。あッ、今、冷たい水を持って来るからナ。 子供のようにウキウキとしている。一太郎のモノローグ「日曜や休日を使っての家族奉仕の時間は、少しばかり効果を発揮したのだが――」 ゴルフ場・コース (別の日) 得意先のお伴で、一日キャディ役を買って出た一太郎が、汗だくでサービスにこれ努めている。一太郎のモノローグ「仕事の方は、あまり捗(はか)ばかしい兆しは見えないのだった」 パットが決まらずに不機嫌な重役に対して、不器用な一太郎は臨機応変な対応が出来ずに困り抜いている。 別の会社の 重役宅 (別の日) 祝日に得意先の重役の自宅に出掛け、無料奉仕で庭木の手入れを買って出た一太郎。重役 日本君、本当に大丈夫だろうね。 脚立の上に乗り、植木鋏を使っている一太郎が、元気よく答える。一太郎 これでも若い頃には、植木職の見習いをしたことがあるのです。重役 ほう、するとプロの腕を持っているのだ、君は。一太郎 昔取った杵柄と、言いたい所なのですが、実は半年程で馘首(クビ)になりまして…。重役 えっ、半年でクビ!? (とても不安げある) J M C オフィス (朝) 遅れて出社して来た一太郎の顔を見るなり、課長が声を掛けてきた。課長 遅刻だよ君、さっきから部長がお待ちだ。 即座に、部長の所に行く一太郎。一太郎 部長、遅くなりまして申し訳ありません、お得意様に直行したものですから。部長 この方のオフィスを訪ねて見てくれ給え。社長の知り合いで、業界では セールスの神様 と異名を取るくらいの、凄い女性だそうだ。 と、一枚の名刺を手渡した。一太郎 畏まりました。 一太郎が名刺を見ると、『 南亜 モーター 販売・営業担当 新谷 春子 』とだけ印刷されている。一太郎 部長、この方をお訪ねして、一体何を致したら宜しいので…?部長 兎に角、行ってみ給え。行けば分かるようになっているから。一太郎 はい。 南亜モーター販売・研修室 三十歳を少し過ぎたばかりと思われる年若い女性、新谷春子と一太郎が二人きりで、少し広めの研修室に居る。春子 最初にも申し上げました様に、営業には極意とか、奥の手と言った、何か特別な物、秘密めかしたものは何も無いと、私は思っております。一太郎 でも、私のように何時までたっても上達しない者と、貴女様の様にお若いのに、名人と称される人が出て来る。それは一体どのような理由に依るのでしょうか、是非、そこの所をお教え願いたいのですが。春子 (優しい微笑みを浮かべながら)商売には必ず、人と人との交流が介在します。商品やサービスを提供する側と、それを受け取る側とです。(傍らのホワイトボードに随時板書しながら)売り手である私達セールスマンは徹頭徹尾お客様と真正面から向き合う努力が求められています。誠心誠意、お客様の心を汲み取り、受け取り、全面的に受け入れる。セールスマンに秘訣があるとすれば、以上の事に尽きるのだと、私は思っております。一太郎 しかし、商品をしっかりと売らなければなりませんね。春子 勿論です。一太郎 商品を売って「なんぼ」の世界ですね。春子 仰る通りですわ。私も最初の頃は、つまり商品を売る事しか頭にありませんでした。一太郎 はい……春子 商品を首尾よく売ると言うのは、飽くまでも結果です。商品を売ろう売ろうと焦りますと、その事だけに意識が集中してしまいます。売り手の努力が空回りして、お客様の心が何時の間にか離れてしまう事になってしまう。一太郎 (思い当たる節が大いに有る) はい、その通りだと思います。春子 一般論で考えてみましても、目標と言うものは、そうですねえ、目標を、夢と置き換えてみるのも良いかも知れませんね。目標とか夢と呼ばれる物は、現在・只今の行動をより良く、よりスムーズに推し進め、又自分の意欲やモチベーションを高める為の、謂わば 梃子 の支点の役割を果たすものです。その支点の為に現在の行動が邪魔されたり、意欲が阻害されたりするならば、その様な目標や夢は、無い方がずっと良いことになってしまいますね。 一太郎、大きく頷いている。一太郎 お客の心を掴む事だけに意識を集中させる事が、何よりも大切なのですね。春子 (ニッコリとして) その通りです。 ―― 時間経過 ―― 新谷春子の指導で、営業販売のロールプレイの演習が実施されている。 少し離れた場所からメモを取りながら熱心にオブザーブしている一太郎が居る。 ―― 時間経過 ―― 演習終了後のフィードバックの意見交換が、春子を中心に行われている。一太郎の順番である。一太郎 皆さんの真摯な講習を拝見させていただき、感動致して居ります。これからも学ばなければならない事柄、反省しなければならない点、様々あると気付きました。本当に、本日は貴重な体験をさせて頂きました。 (深々と頭を下げる一太郎である)