プラトンの「饗宴」の翻訳、創作風に その四
もし人々の行動規範は恋愛行動の中に規定されていると考え続けるならば、他の都市では原理原則が文字に書かれて非常に理解しやすいのに対して、我々の物はもっと複雑である。エリスやボエオテアやスパルタではスピーチが得意でないので、慣習法は極めて完結に述べて、愛人を満足させることは良いことであり、それを恥ずかしい事とは老いも若きも、誰も考えないとしている。 想像するに、事実は話すのが苦手であるから、若い人の好意を勝ち取る為に説得力のある弁舌を振るう手間を省く目的でそうしているのだ。他方で、イオニアの多くの部分では、そしてペルシアの統治下にある他の場所では事態は全く真逆になっている。 何故そうした愛が、知的で肉体的な行為を伴う愛を含めて、ペルシア人に非難れるのかは、かの帝国の絶対的な性格に見出される。 寛大な精神や強固な友情や愛着などが支配民の間から発揚してくる事は支配者の利益に適合しない。それらは愛情が取り分け生み出す傾向があるので。 この事実を述べれば、アテネでも僣王によって実際に経験されていたのだ。彼等専制君主の力はアリストギトンの愛やハルモ二デスの強力な愛情によって滅ぼされたのだ。従って我々は次のごとくに結論づけてよいだろう。つまり、そうした愛が批難され続けている所では、人々の貧弱な性格、支配者側の権力への貪欲さと被支配者の臆病さがそうした愛情批判の背後にあるので、立法制定者の精神的な怠惰に起因しているから、全くもって良いのだと考えられて来ている。 我々の憲法はこれらよりは遥かにずっと高貴であるが、前に述べたように簡単には理解できないのだ。姿を隠そうとしない愛というものは人に見られるのを避ける愛よりも高貴だと、我々の間では看做されている。出自や長所で高名な者の愛こそ、その見かけは劣っていようとも、最も高い尊敬を勝ち得ている。 これに加えて、愛する者が受ける幅広い勇気付けはどの様な汚名も彼に付けられていない証拠である。情事の成功は光輝あるものであり、汚名行為だけが失敗なのだ。しかも我々は単に寛大であるだけではなくて、愛する対象者を追求する愛人がする最も異常な行為ですら賞賛する。もしその行為が他の何かの目的の為に為されたのなら、極めて厳しい非難を被るであろう行為にだ。それは次の如き行為だ、例えば、現金での贈り物を手に入れる目的だったり、公的な地位、その他の権力を享受する立場を目的として自分のお気に入りの相手に愛人として振舞うようにしたりする。自分の目的物を目指して相手に懇願したり拝み倒したりもする。又は、厳粛な約束をする、玄関先で野宿する、どの様な奴隷もかつて行ったことのない隷属行為を自ら進んでやって見せる、等などの醜悪な行為だ。彼は敵や友人から同様に、そうした悪行からは身を引くよう忠告されようから。彼の敵はその奴隷根性や気概の無さを批判するだろうし、友人は忠告し顔を赤らめるだろう。 しかしながら、真実の愛人にあっては、そうした行為は魅力をさらに加えるもので、我々の標準から判定すれば彼らの行動に何らの不名誉も付与しないのだ。何故ならば、愛する者がしようと志している仕事は至高の高貴さを持つ物なのだから。一般に流布している確信こそ奇妙な中でも最も奇妙なのであるが、愛する者、この愛する者だけが無事に偽証し得るのだ。詰まり、愛人の誓約はそもそもが誓いなどではないのだから、と人々は言う。それで我々は自己流の思考法で、愛人は神や人から無制約な許可証を賦与されている。因って、その自然な帰結として、この国では、人を愛する事と愛の相手へ慇懃さを示す事とは、共に素晴らしい事であるとされる。 しかし、こうした情熱を呼吸している少年達は教師としての役割を担っている父親達から、少年の愛人と如何なる情報交換もしてはいけないと指示されているので、愛人と関係を持つことに関して同年代者や友人から妨害と言う悩みを加えられている。少年等の年長者はこの悩ましを止めないし、その行為を批難しようともしない。我々としてはこれに関しては前とは違う結論に導かれ、少年達のそうした愛情関係は非常に不名誉な事とするべきと推論するのだ。 事の真実はこうだと私は信じる。愛には、最初に述べたように、絶対的な正義も誤謬も無いのだと。全ての事柄は状況次第で判断が異なる。悪い人間に悪い方法で身を委ねるのは誤りであり、それにふさわしい人に正しい方法で身を委ねるのは正しい。悪い人間とは普通で平俗な愛人であり、相手の霊魂よりも肉体を愛しているのだ。彼は常に変わらない状態ではない、と言うのも彼が愛しているのが常に変わらない物ではないからだ。彼が愛している肉体の美という美しい花が枯れ始めるや否や、彼の愛は正に夢の如くに姿を消してしまう。彼の告白も約束も全てが無と化してしまう。が、高貴な愛情の方は一生涯を通じて変わらないでいる。その愛情の対象は常に変わらない物だからだ。 それで我々の慣習の目的は愛人達に徹底した試練を課すこととなる。それは愛する者を追求させ愛の対象者を逃れさせようと鼓舞する。その結果は、正しい愛人は満足を得、誤ったそれは排除される。どちらの性質の方に愛人とその相手が属するかを決する一種の試合の場を準備していることになる。 これが我々が二つの事柄は不名誉な事だと言う一般的な感情を抱く背後にある動機なのです。第一は恋人に直ぐに屈服すること。時、それは全ての事柄に関する最上の試練なのだから、が経過するのを許さなければいけない。そして第二に、愛人の富や権力に屈してはならないこと。人は吃驚したり相手の与える苦痛に耐えることが出来ない故に、あるいは又、相手が与える物質的で政治性のある優位な条件に抵抗することが出来ないから。こうした物は安定していたり恒常性のあるものではないのであり、こうした物に基づく高貴な友情は無いのだという事実を無視してはいけないのだ。 我々の原理では、愛人が名誉ある仕方で愛する者の所有を楽しむ方法はただ一つある。我々は以下の様に思う。愛する者は奴隷根性を持たずに愛の対象者にどの様に隷属しても良いので、ひとつだけ不名誉でない自ら進んでする隷属の形があると。それは卓越した物を獲得する目的での隷属なのだ。或る人物が他者の意のままになる立場に自分を置きたいと欲する理由が、この方法で知識の或る部門を向上させる事が図れるとか、その他の素晴らしい性質が得られると信じるなら、我々の標準に照らして、その様な進んでする服従には不名誉や奴隷根性の欠片も無いと。 もしも愛する者同士の関係が名誉あるものだとすれば、僕が既に宣言している原理は、少年達を愛する者の行動に関連したり、知識やその他の素晴らしい形の物への欲求に関係する物の組み合わせの中に見出す事が出来るのだ。 少年との愛を含めて、その愛が素晴らしい状態を目指しての愛であった場合にだけ、その愛は名誉あるものと称揚されて然るべきである。これが聖なる愛であり、聖なる神と関連しているのだ。その他の全ての愛は、普通のアフロディテに属するものだ。 以上が愛を論題にして、僕が即興的に作ったベストの貢献なのだよ、ファイドロス君。 次の席順から言えばアリストパネスの番だったのだが、急にヒャックリが止まらなくなったので、医者のエリキマカスが先に話し始めた。 パウサ二アスは、素晴らしい始まりであったが、まだ十分な結論には達していない。それで私はそれに関連付けながら決着を図るのは義務であろうと考える。彼が愛の二つに截然たる区別を設けたのは正しいと思う。しかし私の医者としての職業的な経験からすれば、愛とは魂を回ったり、美少年を目的とするだけのものではなく、その他の多くの目的や活動の分野を持っている。具体的に述べれば、全動物の体、地に生える植物、実際上の全ての存在物に及んでいる。事実、愛の神は偉大にして驚異的な神であるし、その影響力は至るところに及んでいて、神々や人々を同様に抱き止めているのだ。 薬から始めてみようか。その技術に敬意を払う目的でね。我々の身体の構成には二つの愛が含まれている。健康体は病気のそれとは明白に違い、似てはいない。似ていない物によって感じられる欲望や愛の対象は、当然に相違している。従って、健康な身体に存在する愛は病気の身体に存在する愛とは違う。人体を相手にしていると、一寸前にパウサ二アスが言った事と相似な事があるのに気づくのだ。名誉と不名誉が徳あるか邪悪の者の欲望に屈するかどうかにあったように、十全で健康な体に感謝して、不健康で病的な要素を妨害するのが、善き開業医の義務なのである。