「万葉集」に親しむ その六
山の邉(へ)の 御井を見がてり 神風(かむかぜ)の 伊勢少女(いせをとめ)ども 相見つるかも(― 山の辺の御井を見るついでに、神風の息吹ではないが、伊勢少女達の美しい姿を見たことである) うらさぶる 情(こころ)さまねし ひさかたの 天のしぐれの 流らふ見れば(― 荒涼とした淋しさを胸に感じてしまうよ、確固たる悠久の空から時雨が流れるように降り続く様を見ていると) 海(わた)の底 奥(おき)つ白浪 立田山 何時(いつ)か越えなむ 妹(いも)があたり見む(― 海の遥か遠く、奥底のような遠方に立つ白浪、その立ちではないが、立田山を一体何時になったら越えることが出来るのだろうか。一刻も早く愛する妻の住む家の辺りを見たいと思うのだがなあ) 秋さらば 今も見るごと 妻戀ひに 鹿(か)鳴かむ山そ 高野原の上(うへ)(― 季節が秋になるならば、今屏風絵で見るように、妻を恋うて鹿が悲しげに鳴くでありましょう。高い山の上の野原では。ですから、又、秋になったら再会致しましょう、今日の如く楽しく) 君が行き 日(け)長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ(― 私の愛する夫は旅に出てから大分日数が経過してしまっています。山までお迎えに出て行きましょうか、それともこのまま家でお待ち致しましょうかしら) かくばかり 戀ひつつあらずは 高山の 磐根(いはね)し枕(ま)きて 死なましものを(― こんなにも恋い慕っていないで、高い山の岩を枕にして、いっそ死んでしまいたかったわ、こんなにも苦しい思いに耐えるくらいならば) ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまで(― このままで最愛の夫を戸外で待っていましょう。私の黒髪に真っ白く霜が降りるまでに…。現実にはそうはならないだろうが、私の気持ちの中では、長い年月が経過して、私は皺くちゃの老婆になり、あんなに魅力的だった黒髪も白い霜の状態に変化した如くに感じられることでしょう) 秋の田の 穂の上(へ)に霧(き)らふ 朝霞 何處邉(いづへ)の方(かた)に わが戀ひ止まむ(― 秋の田の稲の穂の上に立ち込めている霧が、時とともにやがては何処へともなく姿を消すが、私のこんなにも恋い焦がれている切ない恋情は、一体、何時になった、何処へ消えてしまうと言うのだろうか、永遠に消えることはないだろうに) 居明(ゐあ)かして 君をば待たむ ぬばたまの わが黒髪に 霜はふれども(― 一晩中、こうして戸外で夫を待っていよう、夫が愛してくれている私の自慢の漆黒の黒髪は、霜で真っ白に変わって行くけれども…) 君が行き 日(け)長くなりぬ 山たづの 迎へか往かむ 待ちには待たず(― 愛する夫の旅行は余りにも長くなってしまいましたよ。枝や葉が相対しているニワトコ・造木(みやつこぎ)ではないけれども、二人で並んで居ないと物足りませんので、途中まででもお迎えに出かけましょうかしら。こうしてじっと待っていることなど、私には我慢が出来ませんのです) 妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺(ね)に 家もあらましを(― 愛しいあなたの家をいつでも見ることが出来たらなあ。大和の大島の峰に家があったならなあ) 秋山の 樹(こ)の下隠(かく)り 逝(ゆ)く水の われこそ益(ま)さめ 御思(みおもひ)よりは(― 秋の山の、木の下を隠れて流れて行く水の水量が増すように、あなた様が私を御思い下さるよりは、私の方こそ一層思いを寄せておりますでしょうよ、きっとね) 玉くしげ 覆(おほ)ふを安み 開けて行かば 君が名はあれど わが名し 惜しも(― 櫛を入れる美しい箱の蓋を開けるのは容易ですが、その蓋を開けるではありませんが、貴方がお泊りになって、夜が明けてからお帰りになられるならば、あなた様の御名前はともかくも、評判に立つ筈の私の名前が惜しまれまする) 玉くしげ みむろの山の さなかづら さ寝(ね)ずはつひに ありかつましじ(― 神を祀ってある美しい三輪山、その山の五味・皮肉は甘く酸く、核の中は辛く苦く、全てに鹹味があるので言う のサナカズラではないが、あなたと共に寝なければ、結局、そのままで耐えていることは不可能でしょうよ) われはもや 安見兒得たり 皆人の 得難(えがて)にすとふ 安見兒得たり(― 私はあの有名な采女のヤスミコを落としたぞ、男達の誰もが手に入れるのは難しいと嘆いていた、あの美人のヤスミコと夫婦の契りを交わしたのだぞ、どんなものだ、へん!) み薦(こも)刈る 信濃(しなの)の眞弓 わが引かば 貴人(うまひと)さびて いなと言はむかも(― み薦を刈る、信濃の国で有名な弓を引く様に、あなたの心を私が引いたならば、あなたは柄にもなく貴人ぶって、嫌だというでしょうかね、どうですか…) み薦刈る 信濃の眞弓 引かずして 弦(を)はくる行事(わざ)を 知ると言はなくに(― 信濃の真弓を引いて見もしないで、弓弦のかけ方を知っている人はいないと言いますよ。女の心を本気でひいてみようともしないで、女を自分の意に従えさせる事の出来る人は居ないといいますよ、意気地なしの弱虫さん、どうする気なのですかね) 梓弓(あずさゆみ) 引かばまにまに 依らめども 後の心を 知りかてぬかも(― 古代には神降ろしに用いた神聖な梓弓を引くかのように、あなたが私の心をもしも強く惹いて誘うならば、あなたの意向のままに寄り添い、付き従いましょうが、その後のあなたの心変わりが今から心配でなりませんわ。さぞかし多くの女に言い寄って甘い言葉をかけているのでしょうからねえ) 梓弓 弦(つる)緒(を)取りはけ 引く人は 後の心を 知る人そ 引く(― 梓弓に弓弦を付けて引く人は、行く末まで自分の心が変わらないと分かっている人こそ引くものですよ) 東人(あづまど)の 荷向(にさき)の筐(はこ)の 荷の緒(を)にも 妹は心に乗りにけるかも(― 東国人の貢物を入れた箱の荷物の緒のように、恋人である妹はしっかりと私の心に乗っているのだなあ、嬉しい限りである)