「万葉集」に親しむ その四十四
河の上(へ)の いつ藻(も)の花の 何時も何時も 來ませわが背子 時じけめやも(― 河のほとりのいつもの花のように、何時も何時もおいで下さい。わが背子・恋人よ。何時でも時期はずれということはありません) 衣手(ころもで)に 取りとどこほり 泣く兒にも まされるわれを置きて 如何にせむ(― 着物の袖に取り付いて、動かずに泣く子供よりもひどく悲しんでいる私を置いて行って、どうなさるのでしょう) 置きて行かば 妹戀ひむかも 敷栲(しきたへ)の 黒髪しきて 長きこの夜を(― すておいて九州に行ってしまったならば、妹は私を恋慕うであろうか。この長い秋の夜、黒髪を敷いて独り寝て) 吾妹子(わぎもこ)を 相知らしめし 人をこそ 戀のまされば 恨めしみ思(おも)へ(― 吾妹子と知り合うようにさせた人をこそ、今、恋の心のまさるにつけて、かえって怨めしく思うのだが) 朝日影 にほへる山に 照る月の 飽かざる君を 山越(こし)に置きて(― 朝日の光の射し染めた山の辺に残っている月のように、見飽きることのないあなたを、山越に置いて心もとない気持である) み熊野の 浦の濱木綿(はまゆふ) 百重(ももへ)なす 心は思(も)へど 直(ただ)に逢はぬかも(― み熊野の浦の浜木綿は葉が幾重にも重なりあっているが、そのように幾重にも心で思っていても、直接逢う機会がないことである) 古(いにしへ)にありけむ人も わがごとか 妹(いも)に戀ひつつ寝(い)ねかてずけむ(― 昔の人も自分のように妹・恋人を恋うて、寝ることができなかったであろうか) 今のみの 行事(わざ)にはあらず 古の人そ まさりて哭(ね)にさへ 泣きし(― 妻を恋うて泣くのは今の世だけの事ではない。昔の人こそ今にもまして声まで上げて泣いたのだ) 百重(ももへ)にも來及(きし)かぬかもと 思へかも 君が使の 見れど飽かざらむ(― あなたから来る使は見ても見飽きないのは、百度でも繰返して来て欲しいと思うからであろうか) 神風(かむかぜ)の 伊勢の濱荻(はまおぎ) 折り伏せて 旅寝(ね)やすらむ 荒き濱邊に(― 伊勢の浜荻を折り伏せて、今頃は荒い浜辺で旅寝をしていることであろうか) 未通女(をとめ)等(ら)が 袖布留(ふる)山の 瑞垣(みづかき)の 久しき時ゆ 思ひきわれは(― 乙女達が袖を振る山・天理市布留の石上神宮の瑞垣が久しい昔からあるように、ずっと以前から自分はお前の事を恋しく思っているのだ) 夏野ゆく 牡鹿(をしか)の角(つの)の 束(つか)の間(ま)も 妹が心を 忘れて思(おも)へや(― 夏の野をゆく牡鹿の角は短いが、そのように短い間も、私を思う妹の気持を忘れていようか、いつも忘れずに心に抱いている) 珠衣(たまきぬ)の さゐさゐしづみ 家の妹にいはず來て 思ひかねつも(― 家で私を待っている妹にろくに物も言わずに出かけて来て、恋しさにたえないことである) 君が家に わが住坂(すみさか)の 家道(いへぢ)をも 吾は忘れじ 命死なずかも(― 住坂の家道もあなたのことも私は忘れまい、生きている限りは) 今更に 何をか思はむ うちなびき こころは君に よりにしものを(― いまさらに何を思いましょう。私の気持はうちなびいて、もはやあなたに一すじに傾いてしまった) わが背子は 物な思ほし 事しあらば 火にも水にも われ無けなくに(― わが背子・男の恋人は心配なさいますな。もし何か事があったならば、火であろうが水であろうが、私がおりますから) 敷栲(しきたへ)の 枕ゆくくる 涙にそ 浮寝(いきね)をしける 戀の繁きに(― 枕から流れる涙に浮寝をしてしまった。恋心がしきりで止むことがないから) 衣手の 別(わ)く今夜(こよひ) 妹もわれもいたく 戀ひむな 逢ふよしを無み(― 別れてしまう今夜からは、二人共随分恋しく思い合うことだろうね。互いに逢うすべがないのだから) 臣女(たわやめ)の 匣(くしげ)に乘れる 鏡なす 御津(みつ)の濱邊に さにつらふ 紐解き離(さ)けず 吾妹子(わぎもこ)に 戀ひつつ居れば 明け闇(ぐれ)の 朝霧隠(がく)り 鳴く鶴(たず)の ねのみし鳴かゆ わが戀ふる 千重の一重も 慰もる 情(こころ)もありやと 家のあたり わが立ち見れば 青旗(あをはた)の 葛木山(かづらきやま)に たな引ける 白雲隠(かく)る 天さがる 夷(ひな)の國邊に 直向(ただむか)ふ 淡路(あはぢ)を過ぎ 粟島(あはしま)を 背(そがひ)に見つつ 朝なぎに 水手(かこ)の聲(こゑ)呼び 夕なぎに 梶の(かぢ)の音(と)しつつ 波の上(へ)を い行きさぐくみ 岩の間(ま)を い行き廻(もとほ)り 稲日都麻(いなびつま) 浦廻(うらみ)を過ぎて 鳥じもの なずさひ行けば 家の島 荒磯(ありそ)のうへに 打ちなびき 繁(しじ)に生ひたる 莫告藻(なのりそ)が などかも妹に 告(の)らず來にけむ(― 女の人の櫛の箱の上に乗っている鏡のように見る三津の浜辺で赤い紐を解き離たずに吾妹子を恋しく思っていると、明けぐれの朝霧に隠れて鳴く鶴のように、ただもう泣けてしまう。私の恋しく思う心の千分の一でも慰められようかと、家のあたりを望んで見ると、葛木山のにたなびいている白雲に隠れている。そこで田舎に真向かいになっている淡路を背に見ながら朝凪には梶の音を立てながら、波を縫って行き、岩の間を行き廻り、印南野の突端の浦の巡りを過ぎて、島のように漂っていくと、家の島の荒磯の上に、ナノリソがなびいて多く繁っているが、そのナノリソのように、どうして恋いしい妹に、ゆっくり別れの言葉も言わず出かけて来てしまったのであろう)