「万葉集」に親しむ その四十七
後(おく)れゐて 戀ひつつあらずは 紀伊國(きのくに)の妹背(いもせ)の山にあらましものを(― 後に残されて恋い慕っていずに、ああ、私が紀伊の国の妹背の山であったらよかったものを) わが背子が 跡ふみ求め追ひ行かば 紀伊(き)の關守い 留(とど)めてむかも(― わが背子が行った後を尋ねて追いかけて行ったならば、紀伊の国の関の関守が私を引き留めてしまうだろうか) 三香(みか)の原 旅の宿りに 玉鉾(たまほこ)の 道の行き合ひに 天雲(あまくも)の 外(よそ)のみ見つつ 言問(ことと)はむ 縁(よし)の無ければ 情(こころ)のみ 咽(む)せつつあるに 天地の神祇(かみ)ことよせて 敷栲の 衣手易(か)へて 自妻(おのづま)と たのめる今夜(こよひ) 秋の夜の 百夜(ももよ)の長さ ありこせぬかも(― 三香の原の旅の宿りの時も、到底手の届かないものと見ていて、話しかけるきっかけがないので、胸が一杯になってつらい気持でいると時に、天地の神のお計らいで、袖をさし交えて自分の妻として安心して心を寄せている今夜は、春の短夜だが、長い秋の夜を百夜もつないだ程の長さがあってほしいものである) 天雲(あまくも)の 外(よそ)に見しより 吾妹子(わぎもこ)に 心も身さへ 寄(よ)りにしものを(― 天雲のように手の届かないものと見た時から、吾妹子に、心も、身までも、寄ってしまったものを) 今夜(こよひ)の早く明けなば すべを無み 秋の百夜(ももよ)を 願ひつるかも(― この夜が明けてしまったら、するすべがないから、秋の長い夜を百夜もつないだような長さを願ったことであるよ) 天地の神も 助けよ 草枕旅ゆく君が 家に至るまで(― 天地の神様も助けて下さい。私が危険な旅を続けて君の家に無事にたどり着けるまで) 大船の 思ひたのみし 君が去(い)なば われは戀ひむな 直(ただ)に逢ふまでに(― 大船のように心に頼みにしていた君が去ってしまったならば、私は再び直接お会いするまで恋しく思っていることであろう) 大和路(やまとぢ)の 島の浦廻(うらみ)に寄する波 間も無けむ わが戀ひまくは(― 大和への路の、島の浦廻に寄せる波が間隔もないように、私のあなたを恋しく思う心は、絶え間もないことである) わが君は わけをば死ねと思へかも 逢う夜逢はぬ夜(よ) 二つ走(ゆ)くらむ(― わが君は私を死ねと思うから、会って下さる夜と、会って下さらない夜と二つの途を御取りになるのでしょうか) 天雲の遠隔(そきへ)の極(きはみ) 遠けども 情(こころ)し行けば 戀ふるものかも(― 天雲の遠ざかって行く極みにあるあなとの所は、ここから遠いけれども、心と言うものはどんなに遠くても通って行くので、恋しく思うというわけなのです) 古人(ふるひと)の食(たま)へしめたる吉備(きび)の酒 病(や)まばすべなし 貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ(― 折角、むかしなじみが下さった吉備のお酒であるから、いただいて気分が悪くなったら困ります。その時の用意に、手洗いの貫簀を下さい) 君がため 醸(か)みし待酒安(まちざけやす)の野に 獨りや飲まむ友無しにして(― あなたのために作った待酒を安の野で独り飲むことであろうか) 筑紫船(つくしぶね) いまだも來(こ)ねばあらかじめ 荒(あら)ぶる君を見るが悲しさ(― あなたが筑紫に行く舟はまだ来もしないのに、もう今から私をうとうとしくなさるのを見るのが悲しい) 大船を 漕ぎの進みに 磐(いは)に觸(ふ)れ 覆(かへ)らば覆(かへ)れ 妹に依りては(― 大船を漕いで進んでいく時に岩に触れて転覆するならば転覆せよ。妹の事によってならば) ちはたぶる 神の社に わが掛けし 幣(ぬさ)は賜(たば)らむ 妹に逢はなくに(― 神の社に願い事の為に私が掛けた幣は、返していただきましょう。願いは叶わず妹に逢えないのだから) 事も無く 生き來(こ)しものを 老(おい)なみに かかる戀にも われは會へるかも(― 悪いことも起こらずに生きて来たのに、老年になってこんな苦しい恋に出会ってことであるよ) 戀ひ死なむ 時は何せむ 生(い)ける日のためこそ 妹を見まく欲(ほ)りすれ(― 恋焦がれて死ぬような時になってからでは、逢ったとて何の役に立とう。生きている日の為にこそ妹と会いたいと思うのに) 思(おも)はぬを 思ふといはば 大野なる三笠の社(もり)の 神し知らさむ(― 思ってもいないのに思っているというならば、大野の三笠の社の神が御存知で、罰をお与えになるでしょう) 暇(いとま)無く 人の眉根(まよね)を いたずらに 掻(か)かしめつつも 逢はぬ妹かも(― しょっちゅう人の眉げをむやみやたらに、書かせていても、-眉を書くと人に逢うという俗信があった-、妹には会えないのであった)