「万葉集」に親しむ その五十七
いふ言(こと)の 恐(かしこ)き國そ 紅(くれなゐ)の 色にな出でそ 思(おも)ひ死ぬとも(― 人の噂の恐ろしい国です。紅の様にはっきりと顔に出さないで下さいな。恋い慕う余りに、死ぬようなことがありましょうとも) ―― 私・草加の爺は、この歌の作者の言うことが実のところ良く分かりません。理解不能でありまする。白髪、三千丈、的なオーヴァーな表現と軽く解釈すればそれで済むものを、なにも目くじら立てて言い募る程の事ではない。そう済ませるのが大人と言うもの。所が私は「万年少年を気取る」ボケ老人ですから、ストレートに、徹底して拘ってみましょう。恋焦がれて、その結果、死に至る。その様な人を、私は十年以上携わっている「源氏物語」の中に発見することが出来るのです。それで済ませるつもりは今の私には毛頭ありませんで、例えば宇治の山荘に住む大君と言う姫君などは、薫という青年貴族と一旦結ばれるのですが、その京都からの訪問が余りに間遠なので、待ち侘びて結果病に陥り、死んでしまうのですが、これなどは典型的な恋焦がれての 恋死に と言えるのでしょう。が、これなどは、世間知らずの深窓のご令嬢が世間知らずの故に、自分で衰弱死したのであって、純粋に恋の故に死んだとはとても言えないわけであります。詰まり、適切なアドバイスがあれば、大君は死なずに済んだ。と、まあ、そう言う次第なのでありました。詰まりは、決論として言えば、人は男であれ、女であれ、純粋に粋に恋のためだけでは死なないのであります。所で、最近の若い女性はやたらと、と私には思えるのですが、恋ではなくて何か原因不明の理由で、死にたがっている。ようであります。それも自分ひとりではよう死ねないので、誰か男の手助けが必要だというのですから、驚きですね。私に理解出来なくとも、然るべき正当な理由が、絶対者の立場からすれば必然的にあるわけでありますからら、私ごときが要らぬ心配をする必要などはないのでしょうが、バカは死ななきゃ治らないとか、私などは差詰正真正銘付きの大馬鹿三太郎ですから、ついつい余計な神経を使ってしまうのです。笑う時には笑うがよく、死ぬ際には死ぬがよいのでしょう、きっと。 今は吾(あ)は 死なむよわが背 生(い)けりとも われに寄るべしと 言ふとはなくに(― 私の愛するお方よ、今は死んでしまいましょう、私は。何故なら、たとえ生きていても私に心を寄せて愛してやろうとは誰も言っては下さらないから) 人言(ひとこと)を 繁みか 君が二鞘(ふたさや)の 家を隔てて 戀ひつつをらむ(― 世間の人々の口煩い噂が原因なのでしょうか。恋しく思うあなたと私とが、二つの鞘が並んでいる様に互いに隔たった家に居て、恋しく思うばかりで直接にお会いできないでいるのは) このころは 千歳や往(ゆ)きも 過ぎぬると われやしか思(も)ふ 見まく欲(ほ)れかも(― この頃は、千年も経過してしまったと、私が感じるだけなのだろうか。それとも実際にそれ程の長い時間が経ってしまったのだろうか、分別がつかない状態でありまする。実際には、それ程に恋しいあなたに逢いたい気持がそういう気分に陥らせるのでしょうか知らん) 愛(うるわ)しと わが思(も)ふこころ 速河(はやかは)の 塞(せ)くとも なほや崩(く)えなむ(― 私の恋しく切に思うあなた様は、とてもご立派なのですが、あたかも急流の流れを無理に堰き止めようとしても出来ないように、私の激流のごとくに逸る恋心は堰き止めようにも、その手段がないのですから、遠くから尊敬して仰ぎ見るだけではどしても我慢がならないのですわ。どうぞ、御推察下さいませ) 青山を 横切る雲の 著(いちし)ろく われと咲(ゑ)まして 人にしらゆな(― 青い山を横切って過ぎてゆく白雲が顕著に目につくように、私と一緒に微笑みを交わしなされたあなたは、その事を他人に知られないようにして下さいな) ―― 此処で私・草加の爺は以前から疑問に思っていた事柄に就いて少し省みておこうと思います。恋の当事者同士は他人に自分達の恋の事実を知られることを非常に畏れている。もしくは、大層嫌っている。そういう表現が随所に見られる。何故、どういう理由で自分の恋心や恋の事実を他人に知られるのを恐れたり嫌ったりするのか?自然にそうなるので、特別な理由などはないのだ。そう言い切ってみよう。しかし私は野暮の典型のような男だから、それでも追求の手を緩めたりはしない。恥ずかしいのだ。それもあろうか。恋の邪魔が面倒と言うか、実際問題として、両親やその他からの余計な干渉や介入を恐れる感情の表明かも知れない。多分、一つだけでなくて複数の要素が混じり合っているのである。恋、性欲、メイティング、詰まりは、生殖行為へと直結するのだから、秘密裏に行動が完遂するのが好ましいだろう。何のことはなかった、野暮は野暮な結論を得て、バカを見るのである。 海山(うみやま)も 隔たらなくに 何しかも 目言(めごと)をだにも ここだ乏(とも)しき(― 私達二人は海や山を隔てて遠くに住んでいるわけではなくて、つい目と鼻の先に住んでいると言うのに、どうしてこうもお会いしたり、お話をする機会が少ないのでしょう。一体、何故なのでしょうか? あなた様、お答え下さいな)