「万葉集」に親しむ その八十九
君がため 浮沼(うきぬ)の池の 菱(ひし)採(と)ると わが染(し)めし袖 濡れにけるかも(― あなたの為に泥深い沼で、菱の実を採ろうとして、私が自分で染めた袖を、濡らしてしまった事です) 妹がため 菅(すが)の實(み)採(と)りに 行くわれは 山路にまとひ この日暮らしつ (― 妹の為に菅の実を採みに出かけた私は、山路に迷って、今日一日を過ごしてしまった) 佐保川に 鳴くなる千鳥 何しかも 川原(かはら)を偲(しの)ひ いや川のぼる(― 佐保川で鳴いている千鳥よ。どうしてそんなに川原の景色を賞美して、どんどん川を遡るのだね。これは女に熱中している男を諷したものだとも取れる) 人こそは おぼにも言(い)はめ わがここだ 偲(しの)ふ川原(かはら)を 標(しめ)結(ゆ)ふなゆめ(― 他の人は平凡な景色だと言うかもしれませんが、私がこんなにも賞美している佐保川の川原なのですから、立入り禁止のシメなど決して結わないで下さいね。 男からの返歌 ) 樂浪(ささなみ)の 志賀津(しがつ)の白水郎(あま)は われ無しに 潜(かづき)はな爲(せ)そ 波立たずとも(― ささなみの志賀津の海人は私がいない時に水に潜ったりしないようになさい。たとい波が立っていなくとも) 大船に 楫(かぢ)しもあらなむ 君無しに 潜(かづき)せめやも 波立たずとも(― 沖にまで漕ぎ出して行けるしっかりとした櫓がこの大船には欲しいのです。深い心を持ったあなたが頼りですから、あなたがいないのに決して水に潜ったりはしません) 月草に 衣(ころも)そ染(し)むる 君がため しみの衣(ころも)を 摺(す)らむと思ひて(― あなたの為に摺り染めにしたすり衣を作ろうとして、私は月草・露草=夏に藍碧色の花が咲く で、自分の衣につい色をつけてしまった) 春霞 井(ゐ)の上(へ)ゆ直(ただ)に 道はあれど 君に逢はむと たもとほり來(く)も(― 水を汲む泉のほとりから自分の家に、真っ直ぐに道はあるけれども、あなたにお逢いしたくて回り道して来たのですよ) 道の邊の 草深百合(くさふかゆり)の 花咲(ゑみ)に 咲(ゑ)みしがからに 妻といふべしや(― 道の傍の草が深い所の百合が咲く時のように、ちょっと微笑みかけたでけで、もう妻になったと言うべきでしょうか、そんなはずは御座いませんよ) 默然(もだ)あらじと 言の慰(なぐさ)にいふ言(こと)を 聞き知れらくは あしくはありけり(― 黙っていてはいけないだろうと、相手が言葉だけの慰めに言うのを聞いて、それが分かっているのは、いい気持のしないものである) 佐伯山(さへきやま) 卯の花持てる 愛(かな)しきが 手をし取りてば 花は散るとも((― 佐伯山でウノハナ・ウツギ=初夏に純白の花を咲かせる の花を手に持っている恋人の手を取りさえすれば、その花は散っても構わない) 時じくに 斑(まだら)の衣 着欲(きほ)しきか 島の榛原(はりはら) 時にあらねども(― いつも斑の着物がほしいなあ。それを摺る島の榛の原は、今はその季節ではないけれども) 山守(やまもり)の 里邊に通う山道そ 繁くなりける 忘れけらしも(― 山守が里に通う道に草が繁茂している。山守は通うことを忘れてしまったらしいな) あしひきの 山つばき咲く 八峯(やつを)越え 鹿(しし)待つ君が 斎(いは)ひ嬬(づま)かも(― 山つばきの咲いている多くの山々を越えて、鹿を射ようと待っているあなたの、斎い妻=夫が狩りに出ている間、精進潔斎して夫の安全と狩りの成功を祈り待っている妻 ですね、私は) 暁(あかとき)と 夜烏(よがらす)鳴けど この山上(をか)の 木末(こぬれ)の上は いまだ静けし(― もう夜明けだと夜鴉が鳴いているけれど、まだ、この岡の木の枝先あたりは、しーんと静かだ) 西の市に ただ獨り出でて 眼並(めなら)べず 買ひてし絹の 商(あき)じこりかも(― 平城京の西の市に一人で買い物に出かけて、自分だけで見て買った絹の、買い損ないであったことよ。変な物を買ってしまった) 今年行く 新島守(にひしまもり)が 麻衣(あさごろも) 肩のまよひは 誰(たれ)か取り見む(― 今年出かける新しい島守の肩のほつれは、誰がつくろうのでしょう) 大船を 荒海(あるみ)に 漕ぎ出(で) 彌(や)船(ふね)たけ わが見し兒(こ)らが 目(ま)見(み)は著(しる)しも(― 大船を荒海にいよいよ漕ぎ出すけれども、私が逢ったあの子の、目元の様子が益々鮮明に見えてくるよ) ものしきの 大宮人(おほみやひと)の 踏みし跡所(あとどころ) 沖つ波 來寄せざりせば 失(う)せざらましを(― 嘗て大宮人がこの地にやって来た旧跡なのです。沖の荒波が寄せて来て今ではあと方もなく消え失せておりますが)