「万葉集」に親しむ その九十五
わが情(こころ) ゆたにたゆたに 浮(うき)ぬなは邉(へ)にも 奥(おき)にも 寄りかつましじ(― 私の心は浮いているジュンサイの如るくにゆらゆらして定まらないので、この恋を進めるとも進めないとも決めかねています) 石(いそ)の上(かみ) 布留(ふる)の早稲田(わせだ)を 秀(ひ)でずとも 縄(しめめ)だに延(は)へよ 守(も)りつつ居(を)らむ(― 布留の早稲田にまだ穂が出なくとも、せめて縄だけでも張っておきなさい。私は見守っていましょう) 白菅(しらすげ)の 眞野(まの)の榛原(はりはら) 心ゆも 思はぬわれし 衣に摺(す)りつ(― 真野の榛原を、心から思いもしない自分が衣にり染めしたことであるよ) 向つ峯(を)に 立てる桃の樹(き) 成らむかと 人そ耳言(ささや)く 汝(な)が情(こころ)ゆめ(― 向かいの山に立っている桃の樹は実がなるだろうか、どうだろうかと、人がひそひそと噂をしています。決して油断してはなるません) たらちねの 母が園なる 桑すらに 願へば衣(きぬ)に 着すとふものを(― 母親の園に植えてある桑でさえ、願えば絹の着物として着せてくれると言うのに。どうしてあなたを自分の物に出来ないのでしょうか) はしきやし 吾家(わぎへ)の毛桃(けもも) 本(もと)しげみ 花のみ咲きて ならざらめやも(― ああ、我が家の毛桃は、もとが茂っているのだから、花だけが咲いて実が成らないなどと言うことがあろうか。そんなことはあるまい) 向つ岡(を)の 若楓(わかかつら)の木 下枝(しづえ)取り 花待つい間(ま)に 嘆きつるかな(― 向かいの岡の若い楓の木の下枝を取って、その花の咲くのを待つ間に、おのずとため息が漏れたことである) 氣(いき)の緒(を)に 思へるわれを 山ぢさの 花にか君が 移(うつ)ろひぬらむ(― 私はあなたを命の綱と思っているのに、あなたは、あのしぼみやすい山ちさの様に気が変わってしまったのでしょうか) 住吉(すみのえ)の 淺澤(あささは)小野(をの)の 杜若(かきつばた) 衣(きぬ)に摺りつけ 着む日知らずも(― 住吉の浅沢小野のかきつばたを、衣に摺りつけて着る日は何時のことだろうか) 秋さらば 寫しもせむと わが蒔(ま)きし 韓藍(からあゐ)の花を 誰か採(つ)みけむ(― 秋になったら私が写し染めにしようと蒔いた韓藍の花を、誰が摘んでしまったのだろうか) 春日野(かすがの)に 咲きたる萩(はぎ)は 片枝(かたえだ)は いまだ含(ふふ)めり言(こと)な絶えそね(― 春日野に咲いた萩は、一方は花が咲きましたが、片方の枝はまだ花はまだ蕾のままでいます。どうか便りを絶やさないでいて下さいな、母親としてお願い致します) 見まく欲(ほ)り 戀ひつつ待ちし 秋萩は 花のみ咲きて 成らずかもあらむ(― 見たいものだと心待ちにしていた秋萩は、花だけ咲いて実にならずじまいになるのでしょうか) 吾妹子(わぎもこ)が 屋前(やど)の秋萩 花よりは 實(み)になりてこそ 戀ひ益(まさ)りけれ(― 吾妹子の家の前の秋萩は、花の時より、実になつて、逢って後にこそ、却って一層恋しさが勝った気持ちになってしまった。こんな気持は前には想像もつかなかった事態であるよ) ―― 得恋の経験者なら、と言うよりは、本当のパートナーに邂逅できた者ならば誰もが実感する感情であるが、実際にはこうしたケースはざらにはなく、希なことなのかも知れない。失望する場合の方が多いのかも知れない。私はしばしば耳が痒くなるのだが、何故か耳が痒いのは幸運が訪れる前触れであるとか。どこで、誰に聞いたことなのか、今は思い出せないが、確かに私は、自分では「悪運が強い」などと感想を漏らすのが常なのだが、幸運に恵まれ続けの人生を送らせて頂いている。当たり前だとは、ついぞ考えたこともないが、自分の努力や能力だけのお蔭とも思われない。今ではただ感謝あるのみであるが、特に悦子との「運命の出会い」前後が今考えてみると私の人生の転換点で、彼女との死別がもうひとつの転換機だったような気がしている。穏やかで、平凡で、それでいて無味乾燥ではない、滋味掬すべき味わいも織り込まれている。何とも、味わい深く、有り難い日々を送らせて頂いているのが、誠に感謝に堪えない次第である。考えてみれば、絶対者たる「神」は公平たる事この上ない存在であるから、おごり高ぶらない人間である限りは平等に幸福を頒ち与えて下さっているに相違ないのだが、世の中には何故か勘違いする者も多く、不幸者で溢れかえっているのも一面の真実であるようだ。神が人間に相応の罰を与えるとの考えが広く社会に広がっているようであるが、私の感じている「神」はその様な一種擬人化され、人間化された矮小な存在ではない。人間に罰なるものを与えるのは、同じ狭隘な根性を持った人間である。そのほとんどが他者から与えられるのではなくて、天につばするたぐいで自業自得的な、己の所業に対する自己制裁とも呼ぶべき結果なので、恐るべきは自己自身なのではないかと、私などは密かに考えている。如何でしょうか。私が申し上げたいのは神を自分勝手に解釈したりしてはいけない。神は深淵にして解釈などを受け入れないほどに偉大且つ、惜しみなく豊かな愛情を万物に与え続ける勿体無くて、有り難すぎる対象なのであります。我々人間の幸福も安寧も全ては神によって保証されている。よくある、神の存在証明などとは笑止千万、人間の小賢しさと、愚の骨頂を証しているだけの事柄なのだ。人々よ、大らかに、自由に、公明正大に人生をエンジョイしようではありませんか。生とは、生命とは絶対的に楽しく愉快にあるべく提供されている無償の宝物なのだ。何をひねくれて不平を鳴らしたり、愚痴をこぼしたり、何の役にも立たない屁理屈を述べ立てる必要があろうか。飲めや歌えや、踊れや、それが出来ないとて、何でもない。ふて寝がしたければそうすればよいのだ。こうでなければならない、などとの規約など一切ないのだ。ただ一つ、無闇に命を奪う行為を除いては、神の許しは、つまり広大な無辺の慈愛は宇宙の隅々にまで及んでいるのだ。この私の悟りに難癖をつけようと考えた不幸な御仁が居たら、遠慮はいりませんよ、私に連絡を寄越してください。私は、残された余生をそのために使う積りでいるのですから。無論、あなたから如何なる費用も、見返りも要求致しませんよ。不幸とは自分自身が自分に貼り付けたレッテルなのですから、自分でそれを剥がしさえすればよいので、私の力に頼る必要もないようなもの。どうです、目からウロコが落ちましたか。