「万葉集」に親しむ その九十九
百濟野の 萩の古枝(ふるえ)に 春待つと 居(を)りし鶯 鳴きにけむかも(― 百済の古い枝で春と待つとてじっとしていた鴬は、もう鳴いたであろうか) わが背子が 見らむ佐保道(さほぢ)の 青柳を 手折(たを)りてだにも 見むよしもがも(― あなたが御覧になっているという佐保道の青柳を、せめて手折ってでも、見る手立てが欲しいものだ) うちのぼる 佐保の川原の 青柳は 今は春べと なりにけるかも(― 流れに沿っていく佐保川の川原の青柳は、気づいてみると、芽を吹いて今は春らしくなったのだ) 霜雪(しもゆき)も いまだ過ぎねば 思はぬに 春日(かすが)の里に 梅のはな見つ(― 雪も霜もまだなくならないのに、思いがけず春日の里で梅の花を見た) 蝦(かはづ)鳴く 神名火(かむなび)川に 影見えて 今かさくらむ 山吹(やまぶき)の花(― かじかの鳴く神名火川に影を映して、今頃は咲いていることであろうか、山吹の花が) 含(ふふ)めりと 言ひし梅が枝(え) 今朝(けさ)降りし 沫雪(あわゆき)にあひて 咲きぬらむかし(― つぼみを持っていると聞いた梅の枝は、今朝降ったあわゆきにあって咲いただろうか) 霞立つ 春日の里の 梅の花は なに問はむと わが思はなくに(― 実意もなくあなたをお訪ねしようとは私は思っておりません) 時は今 春になりぬと み雪降る 遠き山邊に 霞棚引く(― 時は今こそ春になったとばかりに、冬には雪の降る遠い山辺に霞が棚引いている) 春雨(はるさめ)の しくしく降るに 高圓(たかまと)の 山の櫻は いかにかあるらむ(― 今春雨がしとしとと降っているが、高円山の桜はどんなであろうか) うち霧(き)らし 雪はふりつつ しかすがに 吾家(わぎへ)の園に 鴬鳴くも(― 空一面を曇らせて雪は降っているけれども、一方で、私の家の庭では鶯が鳴いている) 難波邉(なひはへ)に 人の行ければ 後(おく)れ居(ゐ)て 春菜(わかな)摘(つ)む兒を 見るが悲しさ(― 難波の方に夫が旅に出たので、留守を守る私は、若菜を摘む女をみると何となく物悲しくなる) 霞立つ 野の上(へ)の方(かた)に 行きしかば 鴬鳴きつ 春になるらし(― 霞の立つ野の上の方に行ったところ、鶯が鳴いた。春になるらしい) 山吹の(やまぶき)の 咲きたる野邊の つぼすみれ この春の雨に 盛りなるなり(― 山吹の咲いている野辺のつぼすみれは、この春雨に盛りである) 風交(まじ)へ 雪は降るとも 實(み)にならぬ 吾家(わぎへ)の梅を 花に散らすな(― 風を交えて雪が降っても、私の家の、実にならない梅を、花のままで散らさないでおくれ) 春の野に あさる雉(きぎし)の 妻戀(つまこひ)に 己(おの)があたりを 人に知れつつ(― 春の野に餌を求めてあるくきじが、妻を求めて鳴いて、自分のありかを人に知られている) 尋常(よのつね)に 聞くは苦しき 呼子鳥(よぶこどり) 聲なつかしき 時にはなりぬ(― 平生聞くのは苦しい呼子鳥であるが、その声を懐かしく感じる春になった) わが屋外(やど)に 蒔きし瞿麦(なでしこ) うちしかも 花に咲きなむ 比(なそ)へつつ見む(― 私の家の庭先に蒔いたなでしこは、何時花と咲くだろう。美しいあなたに見立てて、眺めたいものだ) 茅花(つばな)抜(ぬ)く 浅茅「あさぢ)が原の つぼすみれ いま盛りなり わが戀ふらくは) 情(こころ)ぐき ものにありける 春霞 たなびく時に 戀の繁きを(― 切なく苦しいものである、春霞のたなびく時に恋心が頻りなのは) 水鳥の 鴨(かも)の羽(は)の色の 春山の おぼつかなくも 思ほゆるかな(― 水鳥の鴨の羽の色をしている春の山がぼんやりとしているように、あなたのお心持がよく分からないで気になっております) 闇夜(やみ)ならば 宜(うべ)も來(き)まさじ 梅の花 咲ける月夜(つくよ)に 出(い)でまさじとや(― 闇夜ならばおいでにならないのはもっともです。が、梅の花の咲いているこの月夜の晩に、おいでにならないというのですか) 玉襷(たまたすき) 懸けぬ時無く 息(いき)の緒(を)に わが思(も)ふ君は うつせみの 世の人なれば 大君(おほきみ)の 命(みこと)かしこみ 夕されば 鶴(たづ)が妻呼ぶ 難波潟(なにはがた) 三津(みつ)の崎より 大船に 眞楫(まかじ)繁(しじ)貫(ぬ)き 白波の 高き荒海(あるみ)を 島傳ひ い別行かば 留(とど)まれる われは幣(ぬさ)引き 斎(いは)ひつつ 君をば待たむ はや還りませ(― 心にかけない時もなく、命の綱と私が頼りにしているあなたは、この世に住んでいるひとであるから、大君の仰せを畏んで、夕方になると鶴が妻を呼んで鳴く難波の三津の崎から、大船に櫓を多く設けて、白波の高く立つ荒海を島伝いに別れて唐国へお出かけになるが、出発なさったならば、後にのこる私は神に祈り物忌をしてあなたをお待ちしましょう。早く帰っておいでなさいまし)