「万葉集」に親しむ その百六
吉名張(よしなばり)の 猪養(ゐかひ)の山に 伏す鹿の 嬬(つま)呼ぶ聲を 聞くがともしさ(― 吉隠の猪養の山に伏す鹿が妻を呼ぶ声を聞くのは羨ましい) 誰(たれ)聞きつ 此間(こ)ゆ鳴き渡る 雁(かり)がねの 嬬(つま)呼ぶ聲の 羨(とも)しくもあるか(― 誰かきいたでしょうか、此処を鳴いて渡っていく雁の、妻を呼ぶ声は、何とも羨ましい事です) 聞きつやと 妹が問はせる 雁が音(ね)は まことも遠く 雲隠(くもがく)るなり(― 聞いたでしょうかと妹がお尋ねになった雁の声は、本当に遠く、雲隠れて聞こえますよ) 秋づけば 尾花が上に 置く露の 消(け)ぬべくも吾(あ)は 思ほゆるかも(― 秋になると尾花の上に置く露のように、私は身も消えてしまいそうに思われることです) わが屋戸(やど)の 一群(ひとむら)萩(はぎ)を 思ふ兒に 見せずほとほと 散らしつるかな(― 我が家の庭の一群の萩を、恋しい人に見せずに、危うく散らしてしまうところでした) ひさかたの 雨間(あまま)もおかず 雲隠(くもがく)り鳴きそ 行くなる 早稲田(わさた)雁がね(― 雨が止む間も待たずに雲に隠れて鳴いていくのが聞こえる早稲田の雁の声よ) 雲隠(くもがく)り 鳴くなる雁の 去(ゆ)きて居(ゐ)む 秋田の穂(ほ)立(たち) 繁くし思ほゆ(― 雲隠れて鳴いている雁が飛んでいって降りる秋の田の穂立ちがしきりに思われてならない。同様に、恋しい人の事が頻りに心にかかるのだ) 雨隠(あまごも)り 情(こころ)いぶせみ 出で見れば 春日の山は 色づきにけり(―雨で家にこもっていて、気持がうっとおしいので、外に出てみると、春日山は鮮やかにもみじしていた) 雨晴れて 淸く照りたる この月夜(つくよ) またさらにして 雲な棚引き(― 雨が晴れて清く照っているこの月に再び雲よ、たなびくな) 此處にして 春日や何處(いづく) 雨障(あまさはり) 出でて行かねば 戀ひつつそ居(を)る(― ここにいて春日はどっちにあたるだろう。雨に妨げられて出ていかないので、ただ心の中で恋しく思っていることよ) 春日野に 時雨(しぐれ)ふる見ゆ 明日(あす)よりは 黄葉(もみぢ)挿頭(かざ)さむ 高圓(たかまと)の山(― 春日野にしぐれの降るのが見える。明日からは紅葉をかざすことであろう。高円山は) わが屋戸(やど)の 草花(をばな)が上の 白露を 消(け)たずて 玉に貫(ぬ)くものにもが(― わが屋戸のススキの上に置く露を消さずに玉として貫きたい) 秋の雨に 濡れつつをれば 賎(いや)しけど 吾妹(わぎも)が屋戸(やど)し 思ほゆるかも(― 秋雨に濡れてしおたれていると、粗末な家ではあるけれども、吾妹子の家が思われることである) 雲の上に 鳴くなる雁の 遠けれども 君に逢じゃむと た廻(もとほ)り來(き)つ(― 雲の上で鳴いている雁のように遠いけれども、あなたにお会いしたいと回り道をしてやって来ました) 雲の上に 鳴きつる雁の 寒きなべ 萩の下葉は 黄變(もみぢ)ぬるかも(― 雲の上で鳴いた雁の声が寒々と感じられ、折から萩の下葉が色づいたことだ) この岳(をか)に 小牡鹿(をしか)履(ふ)み起(た)て 窺狙(うかねら)ひかも すらく君ゆゑにこそ(― この岳で男鹿を追い立てて窺い狙って、あれこれとするのは、みんなあなた故なのです) 秋の野の 草花(をばな)が末(うれ)を 押しなべて 來(こ)しくもしるく 逢へる君かも(― 秋の野のススキの穂先を押し伏せてやって来た甲斐があって、お会いできたあなたです) 今朝鳴きて 行きし雁が音(ね) 寒みかも この野の浅茅(あさぢ) 色づきにけり(― 今朝鳴いて行った雁の声が寒々としていたからか、今見るとこの野の浅茅が鮮やかに色づいている) 朝戸あけて もの思ふ時に 白露の 置ける秋萩 見えつつもとな(― 朝戸を開けて物思いをする時に、白露の置いた秋萩が見えて、よしなく愁いをそそる) さ男鹿の 來立ち 鳴く野の 秋萩は 露霜(つゆしも)負(お)ひて 散りにしものを(― さ男鹿が来て立って鳴く野の秋萩は、もうとっくに露霜を被って散ってしまった) 手折(たを)らずて 散りなば惜しと わが思ひし 秋の黄葉「もみち)を かざしつるかな(― 手折らずに散ってしまったら惜しいと私の思った秋のもみじを、やっとかざすことが出来た) めずらしき 人に見せむと 黄葉(もみちば)を 手折(てを)りそ わが來し 雨の降らくに(― めったに会えない懐かしい人に見せようと、もみじを手折って私は来た、雨が降る中なのに) 奈良山の 峯の黄葉(もみちば) 取れば散る 時雨の雨し 間(ま)無く降るらし(― 奈良山の峯のもみじは取ると散ってしまう。時雨の雨が休みなく散るらしい)