「万葉集」に親しむ その百十三
河蝦(かはづ)鳴く 六田(むつた)の川の 川楊(かはやぎ)の ねもころ見れど 飽かぬ川かも(― カジカの鳴く六田の川の川楊の根のように、ねんごろに細かく見ても見飽きない吉野川であることよ) 見まく欲(ほ)り 來(こ)しくもしるく 吉野川音(おと)の淸(さや)けさ 見るにともしも(― 見たいと思って来たかいがあって、吉野川の川音が澄明なことよ。見るといよいよ心が惹きつけられる) 古(いにしへ)の 賢(さか)しき人の 遊びけむ 吉野の川原 見れど飽かぬかも(― 昔の賢人が遊んだという吉野川の川原はいくら見ても見飽きないことである) 難波潟(なにわがた) 潮干に出でて 玉藻刈る 海未通女(あまをとめ)ども 汝(な)が名告(の)らさね(― 難波潟の潮干の海に出て玉藻を刈る海人の少女たちよ。お前の名をお言いなさい) 漁(あさり)する 人とを見ませ 草枕旅行く人に わが名は告(の)らじ(― すなどりする者とご覧下さい。旅のお方には私の名は申し上げますまい) 慰めて 今夜(こよひ)は寝なむ 明日よりは 戀ひかも行かむ 此間(こ)ゆ別れなば(― 今夜は心を慰めて寝よう。しかしここから分かれたならば、明日からは恋しく思いつつ行くことであろうか) 暁(あかとき)の夢(いめ)に 見えつつ楫島(かぢしま)の 磯越す波の しきてし思ほゆ(―暁の夢に見えて楫島の磯を越して寄せくる波のように、あなたのことが頻りに思われる) 山科(やましな)の 石田(いはた)の小野の 柞(ははそ)原(はら) 見つつか君が 山道(やまぢ)越ゆらむ(― 山科の石田の野の柞・コナラの原を見ながら、あなたは今頃山道を越えていることであろうか) 山科の 石田の社(もり)に 布麻(ぬさ)置かば けだし吾妹(わぎも)に 直(ただ)に逢はむかも(― 山科の石田の神社に幣を手向けたなら、もしや吾妹子に直接会えるだろうか) 大葉山(おほばやま) 霞たなびき さ夜ふけて わが船泊(は)てむ 泊(とまり)知らずも(― 大葉山に霞がたなびいて夜は更けていくが、私の舟が停泊する所をどことしてよいか分からずに、頼りない気持である) 思ひつつ 來(く)れど來(き)かねて 水尾(みを)が崎 眞長(まなが)の浦を またかへり見つ(― 心にかけながらやって来たけれど、ついに来てしまうことが出来ずに、水尾が崎、真長の浦あたりを、また振り返って見たことである) 高島の 阿渡(あど)の水門(みなと)を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦(しほつすがうら) 今か漕ぐらむ(― 高島の阿渡の水門を漕いで通り、今頃は塩津や菅浦のあたりを漕いでいることであろうか) わが畳 三重の川原の 磯(いそ)の浦に 斯(か)くしもがもと 鳴く河蝦(かはづ)かも(―三重の川原の石の影で、こうしていたいと鳴くカジカです) 山高み 白木綿花(しらゆふはな)に 落ち激(たぎ)つ 夏身(なつみ)の川門(かはと)見れど 飽かぬかも(― 山が高いので、木綿花のように白く波立って激しく流れる夏身の川の川門は、いくら見ても見飽きることができない) 大瀧(おほたぎ)を 過ぎて夏身に 近づきて 清き川瀬を見るが 清(さや)けさ(― 大滝を過ぎ夏身に近づいて、淸い川瀬を見ると清澄な気分がする) しなが島 安房(あは)に繼ぎたる 梓弓(あづさゆみ) 周淮(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むなわけ)の ゆたけき吾妹(わぎも) 細腰のすがる娘子(をとめ)の その姿(かほ)の 端正(きらきら)しきに 花の如(ごと) 咲(ゑ)みて立てれば 玉鉾(たまほこ)の 道行く人は 己(おの)が行く 道は行かずて 召(よ)ばなくに 門(かど)に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻(おのづま)離(か)れて 乞(こ)はなくに 鎰(かぎ)さへ奉(まつ)る 人皆の 斯く迷(まと)へれば 容艶(こほよ)きに よりてそ妹は たはれてありける(― 安房に続いた周淮の珠名娘子は胸の豊かな妹、細腰のすがる、ジガバチ、のような娘子で、その容姿が整って美しく、花のように笑って立っているので、道行く人は自分の行くべき道を行かず、呼びもしないのに珠名の家の門に来てしまう。並んでいる隣の家の主は、あらかじめ自分の妻と別れて、欲しいと頼みもしないのに、家のカギさえ奉るしまつ。みんながこんな風に珠名に迷っているので、自分の美貌にいい気になって珠名は遊び戯れていたと、言うことだ) 金門(かなと)にし 人の來立てば 夜中にも 身はたな知らず 出でてそ逢ひける(― 自分の家の立派な門に人が来て立つと、夜中でも、自分の身は全く構わずに、会ったと言うことですよ)