2023年09月の記事一覧 | 草加の爺の親世代へ対するボヤキ

「万葉集」に親しむ　その百十八

海若(わたつみ）の　いづれの神を　祈(いの）らばか　行くさも來(く）さも　船は早けむ(―　海神のどの神に祈ったならば、行きも、帰りも船は速いだろうか）　人と成ることは難(かた）きを　わくらばに　成れるわが身は　死(しに）も生(いき）も　君がまにまに　思ひつつ　ありし間(あひだ）に　うつせみの　世の人なれば　大君(おほきみ）の　御命(みこと）畏(かしこ）み　天離(あまざか）る　夷治(ひなをさ）めにと　朝鳥(あさとり）の　朝立(あさたち）しつつ　群鳥(むらとり）の　群立(むらた）ち行けばけば　留(とま）り居て　われは戀ひなむ　見ず久(ひさ）ならば(―　人となることは難しいのに、たまたま人と生まれ出た私の身は、生きもあなたの思いのままと思っていたそのうちに、あなたはこの人間世界の方であるから、天皇の大命を畏んで、遠い田舎を治めにと朝鳥の飛び立つように、朝出立して、群鳥が行くように群がってお出かけになる。それゆえ、残っている私は、さぞ恋しく思うことでしょう。お逢い出来ずに久しく時が経ったならば）　み越路(こしぢ）の　雪の降る山を　越えむ日は　留れるわれを　懸(か）けて偲(しの）はせ(―　越路の雪の降る山を越えておいでの日は、後に残っている私を、心にかけて思い出してください）　うつせみの　世の人なれば　大君の　御命畏み　磯城嶋(しきしま）の　倭(やまと）の國の　石上(いそのかみ）　布留(ふる）の里に　紐解かず　丸寝(まろね）をすれば　わが着たる　衣(ころも）は穢(な）れる　見るごとに　戀はまされど　色の出でば　人知りぬべみ　冬の夜の　あかしも得ぬを　寝(ね）の寝(ね）ずに　われはそ戀ふる　妹(いも）が直(ただ）香(か）に(―　この世の人であるから、大君の仰せを畏み承って、大和の国の石上の布留の里に、紐も解かずに丸寝をしているので、私の着ている衣はよれよれになってしまった。それを見るごとに妹恋しさはまさるけれども、顔に出せば人が知るであろうから、明かし難い寒い冬の長夜を、ちっとも眠らないで私は妹の直香を恋しく思っている）　布留山ゆ　直(ただ）に見渡す　京(みやこ）にそ　寝(い）も寝(ね）ず　戀ふる遠からなくに(―　布留山からじかに見渡される奈良の都を、限りもせずに恋しく思う。遠いところでもないのに）　吾妹子(わぎもこ）が　結(ゆ）ひてし紐を　解かめやも　絕えば絕ゆとも　直(ただ）に逢ふまでに(―　吾妹子が結んだ紐を私は解こうか。いや、決して解くまい。もし紐が切れるのならば切れることがあろうともろう、直接に会うまでは。自分から解こうとは思わない）　秋萩を　妻問(つまど）ふ鹿(か）こそ　獨子(ひとりご）に　子持(も）てりといへ　鹿兒(かこ）じもの　わが獨子の　草枕　旅にし行けば　竹珠(たかだま）を　しじに貫(ぬ）き垂(た）り　斎瓴(いはひべ）に　木綿(ゆふ）取(と）り垂(し）でて　斎(いは）ひつつ　わが思ふ吾子(あご）　眞幸(まさき）くありこそ(―　秋萩を妻とする鹿こそは一人子を持つと言うのだが、鹿の子のように一人子である我が子が旅に行くので、竹玉をぎっしりと貫きたらし、斎瓴に木綿とたらして、物忌をして私が大切にしている我が子よ。無事であっておくれ）　旅人の　宿りせむ野に　霜降らば　わが子羽(は）ぐくめ　天(あめ）の鶴群(たづむら）(―　旅人が宿っている野に霜が降りたならば、私の子を、羽で包んでやっておくれ。大空の鶴の群れよ）　白玉(しらたま）の　人のその名を　なかなかに　辭(こと）を下延(したば）へ　逢はぬ日の　數多(まね）く過ぐれば　戀ふる日の　累(かさ）なり行けば　思ひやる　たどきを知らに　肝(きも）向(むか）ふ　心砕けて　玉襷(たまたすき）　懸(か）けぬ時無く　口息(や）まず　わが戀ふる兒を　玉釧(たまくしろ）　手に取り持ちて　眞澄鏡(まそかがみ）　直目(ただめ）に見ねば　下檜山(したひやま）　下ゆく水の　上(うへ）に出でず　わが思ふ情(こころ）　安からぬかも(―　白玉のような美しいその人の名を、なまじっか心に抱き、逢うことの出来ない日が多く過ぎて行き、恋しく思う日が重なって行くので、思いを晴らす仕方も分からずに、心も千々に砕けて、心にかけない時はなく、いつもその名を呼んで恋しく思っている子なのに、手に取り持って、じかに見ることができないので、秋の紅葉した山の、木の葉がくれに行く水のように、上に現れることもなく、私の恋しく思う気持は、いつも安らかではないことであるよ）　垣ほなす　人の横言(よこごと）　繁みかも　逢はぬ日數多(まね）く　月の經ぬらむ(ー　垣をめぐらすように人の噂に取り囲まれているので、逢わずにいる日がおおいのであろうか）　立(た）ちかはり　月重なりて　逢はねども　實(さね）忘らえず　面影にして(―　月が立ち、かわり、幾月も経って会うことがないけれども、本当に忘れられない、面影に立って）

「万葉集」に親しむ　その百十七

石上(いそのかみ）　布留(ふる）の早稲田(わさだ）の　穂に出でず　心のうちに　戀ふるこの頃(―　顔色には表さずに恋しく思っている今日この頃である）　斯(か）くのみし　戀ひし渡れば　たまきわる　命もわれは　惜しけくもなし(―　これだけ恋しく思い続けているのだから、自分はもう命も惜しいことはない）　三諸(みもろ）の神の　帯ばせる泊瀬川(はつせがは）　水脈(みを）し絶えずは　われ忘れめや　(―　三諸の神が帯にして巡らしておいでになる泊瀬川の水脈が絶えればともかく、絶えないならば、あなた方の事を私は忘れないであろう）　後(おく）れ居て　われはや戀ひむ　春霞　たなびく山を　君が越えいなば(―　後に残されて、私は恋しく思うことでしょうか。春霞のたなびく山をあなたが越えて行かれるならば）　後(おく）れ居て　われはや戀ひむ　稲見野(いなみの）の　秋萩見つつ　去(い）なむ　子ゆゑに(―　後に残されて、私は恋しく思うであろう。私の事など思わずに稲見野の美しい秋萩を見ながら任国に赴いていく人であるのに）　神名火(かむなび）の　神依板(かむよりいた）に　爲(す）る杉の　思ひも過ぎず　戀のしげきに(―　恋心が頻りに起こってくるので、心に忘れることが出来ない）　たらちねの　母の命(みこと）の言(こと）にあれば　年の緒(を）長く　憑(たの）み過(す）ぐさむ(―　お母さんのお言葉ですから、長い年月の間、信じてお待ちしておりましょう）　泊瀬川　夕渡り來(き）て　吾妹子(わぎもこ）が　家の門(かど）にし　近づきにけり(―　泊瀬の川を夕方に渡って来て、吾妹子の家の門のあたりによく近づいたことである）　絕等寸(たゆらさ）の　山の峯(を）の上(へ）の　櫻花　咲かむ春べは　君し思(しの）はむ(―　絶等寸の山の峯の上の桜花が咲く春の頃は、あなたは懐かしくお思いになられるでしょう）　君なくは　何(な）そ身装餝(みよそ）はむ　匣(くしげ）なる　黄楊(つげ）の小梳(をぐし）も　取らむとも　思はず(―　あなたがおいででなくては、何で身を飾りましょう。櫛の箱に入っている黄楊の小櫛も手に取ろうとは思いません）　明日よりは　われは戀ひむな　名欲(なほり）山　石踏(いはふ）み平(なら）し　君が越え去(い）なば(―　明日からは私は恋しく思うことでしょう。名欲山を岩を踏みならして越えていっておしまいになったならば）　命(いのち）をし　眞幸(まさき）くもがなも　名欲山　石(いは）踐(ふ）み平(なら）し　またまたも來(こ）む(―　命が無事であってほしい。名欲山の岩を踏みならして、またやって来ように）　牡牛(ことひうし）の　三宅(みやけ）のうらに　さし向(むか）ふ　鹿島の崎に　さ丹塗(にぬり）の　小船(をぶね）を設(ま）け　玉纏(たままき）の　小楫(をかじ）繁(しじ）貫(ぬ）き　夕潮の　満(みち）のととみに　御船子(みふなこ）を　率(あども）ひ立てて　呼び立てて　御船(みふね）出でなば　濱も狭(せ）に　後(おく）れ並(な）み居(ゐ）て　反側(こひまろ）び　戀ひかも居(を）らむ　足摩(あしずり）し　哭(ね）のみや泣かむ　海上(うなかみ）の　その津を指(さ）して　君が漕(こ）ぎ行かば(―　三宅の浦に向き合っている鹿島の崎で、赤く塗った小船を用意して玉を巻いた櫓を多く設け、夕潮の満潮の時に船子達を呼びたてて勢ぞろいさせて、船出をなさったならば、残った者達は浜一杯に並んで、地に身を投げて恋い慕い、足摺をして声を上げて泣くことでしょう。海上の、その港を指してあなたが漕いで行かれたならば）　海(うみ）つ路(ぢ）の　和(な）ぎなむ時も　渡らなむ　斯(か）く立つ波に　船出(ふなで）すべしや(―　海の路の、波のおさまる時にお渡りなさいまし。こう波が立っている時に船出すべきではありますまい）　雪こそは　春日(はるひ）消(き）ゆらめ　心さへ　消え失(う）せたれや　言も通はぬ(―　雪こそは春の日に消えもしようが、心までも消え失せたからか、そんなはずもないのに、言葉すら行き来しないことであるよ）　松反(まつかへ）り　しひてあれやは　三栗(みつぐり）の　中上(なかのぼ）り來(こ）ぬ　麿といふ奴(やつこ）(―　バカになってしまったわけではなかろうに、中上り、任期の途中で一度京都に帰ること、して私のところに来もしないよ、麿という奴は、まあ）

「万葉集」に親しむ　その百十六

鶯(うぐひす）の　生卵(かひご）の中(なか）に　霍公鳥(ほととぎす）　獨り生まれて　己(な）が父に　似ては鳴かず　己(な）が母に　似ては鳴かず　卯(う）の花の　咲きたる野邉ゆ　飛びかけり　來(き）鳴き響(とよ）もし　橘の　花を居(ゐ）散らし　終日(ひねもす）に　鳴けど聞きよ　し弊(まひ）はせむ　遠くな行きそ　わが屋戸(やど）の　花橘に　住み渡れ鳥(―　ウグイスの卵の中にホトトギスは独りだけ生まれて、自分の父に似ては鳴かず、自分の母に似ては鳴かず、卯の花の咲いている野辺を飛びかけって来て鳴き響かせて、橘の花に止まってはその花を散らし一日中鳴いているが、煩くはなくて、いい声だ。贈り物をするから遠く行かないでおくれ。私の家の庭先の花橘に住み着いていなさい、ホトトギスよ）　かき霧(き）らし　雨の降る夜(よ）を　霍公鳥　鳴きて行くなり　あはれその鳥(―　空一面に曇って雨の降る夜にホトトギスが鳴いて行く声が聞こえる。ああ、その鳥よ）　草枕　旅の優(うれ）へを　慰む(なぐさ）もる　事もあるかと　筑波嶺に　登りて見れば　尾花ちる　師付(しづく）の田舎に　雁(かり）がねも　寒く來(き）鳴きぬ　新治(にひばり）の　鳥羽(とば）の淡海(あふみ）も　秋風に　白波たちぬ　筑波嶺の　よけくを見れば　長きけに　思ひ積み來(こ）し　憂(うれ）へは息(や）みぬ(―　旅の侘しさを慰めることもあるかしらと、筑波嶺に登って見晴らすと、すすきの花の散る師付の田に、雁も寒々と来て鳴いていった。新治の地の鳥羽の淡海も、秋風に白波が立っている。筑波嶺の良い景色を見ると、長い間、心に担ってきた侘しさもすっかり癒えた）　筑波嶺の　裾廻(すそみ）の田井に　秋田刈る　妹(いも）がり遣らむ　黄葉(もみぢ）手折(たを）らな(―　筑波嶺の裾のめぐりの田で秋の稲を刈っている妹の許に遣る黄葉を手折りましょう）　鷲(わし）の住む　筑波の山の　裳羽服津(もはきつ）の　その津の上に　率(ゐども）ひて　未通女(をとめ）壯士(をとこ）の　行き集ひ　かがふかがひに　人妻(ひとづま）に　吾(あ）も交(まじ）はらむ　あが妻に　他(ひと）も言問(ことと）へ　この山を　領(うしは）く神の　昔より　禁(いさ）めぬ行事(わざ）ぞ　今日のみは　めぐしもな見そ　言(こと）も咎(とが）むな(―　鷲の住む筑波の山の、裳羽服津の、その辺に、呼び合って若い男女が集ってかがいをする、そのかがいで、他人の妻に私も交わろう。私の妻に他人も言葉を掛けよ。この山を領じている神が、昔から禁止しないことである。今日だけは愛しい人も、見るなかれ。咎め立てするな）　――　かがい　は上代の東国地方で歌垣を言う。特定の日に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的な信仰に立つと言われる。所謂、フリーセックスなどとは本質的に違う、当時の社会的な必要性に応じて発生した、かなり厳粛な習俗的な行事だったとみられる。この歌の作者は既婚者であって、自分の妻にも一日だけの婚姻関係を公認している模様が見て取れるが、その心情については私などの想像をはるかに超えたもので、また彼の心理について想像めぐらす必要もないことなのであろう。　男(を）の神に　雲立ちのぼり　時雨(しぐれ）ふり　濡れ通るとも　われ帰らめや(―　男体山に雲が立ち上って時雨が降り、すっかり濡れても私は帰ろうか、帰りはしない）　明日(あす）の宵(よひ）　逢はざらめやも　あしひきの　山彦とよめ　呼び立て鳴くも(―　明日の夜、会わない筈はないのに、鹿は、山彦を響かせて、妻を呼び立てて鳴いている）　倉橋の　山を高みか　夜隠(よごも）りに　出で來(く）る月の　片待ち難(かた）き(―　倉橋山が高いからであろうか、夜深く出て来る月を眺めようと、いくら待っていても、なかなか見えてこない）　ひさかたの　天(あま）の河(かは）に　上(かみ）つ瀬に　珠橋(たまはし）渡し　下(しも）つ瀬に　船浮(う）け居(す）ゑ　雨降りて　風吹かずとも　風吹きて　雨降らずとも　裳(も）濡らさず　止まず來ませと　玉橋わたす(―　天の河に、上の渡り瀬には立派な橋を渡し、下の渡り瀬には船を浮かべて置き、雨が降って風が吹かない時でも、風が吹いて雨の降らない時でも、裳を濡らさずに、途絶えずにおいで下さいと、この美しい橋を渡します）　天(あま）の河(かは）　霧立ち渡る　今日今日と　わが待つ君し　船出(ふなで）すらしも(―　天の河に霧が立ち渡っている。今日か今日かと私の待っている彦星の君が、いよいよ船出なさるらしい）　　吾妹子(わぎもこ）は　釧(くしろ）にあらなむ　左手(ひだりて）の　わが奥の手に　纏(ま）きて去(い）なましものを(―　吾妹子はクシロ・貝・石・玉・金属で作った輪　であるといいなあ。大事な左手に巻いて行こうものを）　豊國の　香春(かはる）は吾宅(わぎへ）　紐兒(ひものこ）に　いつがり居(を）れば　香春(かはる）は吾家(―　豊国の香春はわが家のある場所でる。紐の児につながっているから、香春はわが家であるよ）

「万葉集」に親しむ　その百十五

崎玉(さきたま）の　小崎(こざき）の沼に　鴨そ翼(はね）きる　己(おの）が尾に降り置ける　霜を掃(はら）ふとにあらし(―　埼玉の小崎の沼で鴨が翼を強く振ってしぶきを立てている。自分の尾に降った霜を払い落とすということらしい）　三栗(みつぐり）の　那賀に向かへる　曝井(さらしゐ）の　絶えず通はむ　そこに妻もが(―　常陸の那賀に向き合っている曝井の水が絶えないように、絶えず那賀に通おうと思う。そこに妻が欲しいものだ）　遠妻(とほつま）し　高(たか）にありせば　知らずとも　手綱の濱の　尋ね來なまし(―　遠くに離れている妻が、多珂にいるのだったら、そこは知らなくとも尋ねただろうに）　白雲の　龍田(たつた）の山の　瀧(やぎ）の上(へ）の　小椋(をぐら）の嶺(みね）に　咲きををる　櫻の花は　山高み　風し止(や）まねば　春雨の　繼(つ）ぎてし降れば　秀(ほ）つ枝(え）は　散り過ぎにけり　下枝(しづえ）に　残れる花は　須臾(しましく）は　散りな亂れそ　草枕　旅行く君が　還(かへ）り來るまで(―　白雲の立つ竜田山の激流に沿った小椋の嶺に、咲繁っている桜の花は、山が高くて風が止まないので、また、春雨が引き続いて降るので、先の方の枝は散りさってしまった。下枝の残っている花は、しばらくは散り乱れないで欲しい。旅を行くお方が帰っておいでになるまで）　わが行きは　七日(なぬか）は過ぎじ　龍田彦　ゆめ此の花を　風にな散らし(―　私の旅行は七日越えまい。竜田の風神よ、決してこの花を風で散らさないで下さい）　白雲の　龍田の山を　夕暮れに　うち越え行けば　瀧の上の　櫻の花は　咲きたるは　散り過ぎにけり　含(ふふ）めるは　咲き繼ぎぬべし　彼方此方(こちごち）の　花の盛りに　あらねども　君が御行(みゆき）は　今にしあるべし(―　白雲の立つ竜田山を夕暮れに越えていくと、激流のほとりの桜は、咲いていたのは散ってしまった。蕾のは咲き継ぐでしょう。あちこちの花は盛りではないけれども、君のお出ましは、ちょうど今がいい時期でしょう）　暇あらば　なづさひ渡り　向つ峯(を）の　櫻の花も　折らましものを(―　暇があったならば、水の上を渡って、向こう岸の桜の花も折ろうに）　島山を　い行き廻(めぐ）れる　川副(かはそ）ひの　丘邊(をかべ）の道ゆ　昨日こそ　わが越え來(こ）しか　一夜(ひとよ）のみ　寝(ね）たりしからに　峯(を）の上(うへ）の　櫻の花は　瀧(たぎ）の瀬ゆ　落ちて流る　君が見む　その日までには　山下(やまおろし）の　風な吹きそと　うち越えて　名に負(お）へる社(もり）に　風祭(かざまつり）せな(―　島山を行き巡っている川ぞいの丘辺の道を、昨日超えてきたばかりだけれど、たった一夜泊まっただけで、峯の上の桜の花は散って激しい瀬を流れている。あなたがご覧になるその日までは、山おろしよ吹くなと、山を越えて有名な竜田の社に風神の祭りをしよう）　い行會(ゆきあひ）の坂の麓(ふもと）に　咲きををる　櫻の花を見せむ　兒もがも(―　人が大勢出会うという坂の麓に咲いている美しい桜の花を見せる恋人が欲しいものだ）衣手(ころもで）　常陸(ひたち）の國　二並(ふたなら）ぶ　筑波の山を　見まく欲(ほ）り　君來(き）ませりと　熱(あつ）けくに　汗かきなげ　木(こ）の根取り　嘯(うそぶ）き登り　峯(を）の上(うへ）を　君に見すれば　男(を）の神も　許し賜ひ　女(め）の神も　幸(ちは）ひ給ひて　時となく　雲居(くもゐ）雨降る　筑波嶺(つくばね）を　淸(さや）に照らして　いふかりし　國のまほらを　委曲(つばらか）に　示し給へば　歡(うれ）しみと　紐の緒(を）解きて　家の如(ごと）　解けてそ遊ぶ　うち靡(なび）く　春見ましゆは　夏草の　茂くはあれど　今日(けふ）の楽(たのし）さ(―　常陸の国の峯の二つ並んでいる筑波山を見にあなたがおいでになったというわけで、暑いさ中に汗を払って、木の根につかまり、ふうふう言いながら登って峯の上の景色をあなたにお見せすると、筑波の男神をお許しになり、女神も加護し給うて、時を定めずに雲がかかって雨が降る筑波山をはっきりと照らし、どんなだか見たいと思った国の良いところを、細かにお示しになったので、嬉しくて、紐の緒を解いて、自分の家にいるように心解けて遊んでいる。夏草が茂ってはいるけれども、春見るよりも今日の何と嬉しいことよ）　今日の日に　いかにか及(し）かむ　筑波嶺(つくはね）に　昔の人の　來(き）けむその日も(― 今日の楽しさにどうして及ぼうか。筑波山に昔の人が来たと言う日も）　　――　私・草加の爺には忘れがたい筑波山に関連しての思い出がある。長男の貴信と二人してハイキングして道に迷い、苦労はしても結構楽い道行となった八月の思い出である。「僕はもう直ぐお兄ちゃんになるんだ」と意気込んでいた三歳の長男の健気な姿が四十数年前とは思えないほどに鮮明に記憶の中に刻印されている。次男の正成が誕生する一月あまり前の出来事なのだ。「生まれる前から可愛い自分の子供を」この世に積極的には呼び寄せる気にはなれないでいた偏屈で、人間嫌いだった私を今日の「人間万歳！」と心の底から思えるように　育て上げてくれた　亡妻・悦子に深甚なる感謝の念を今新たに謹んで捧げたいと思う次第なのでありました。

「万葉集」に親しむ　その百十四

春の日の　霞める時に　住吉(すみのえ）の　岸に出でゐて　釣船の　とふらふ見れば　古(いにしへ）の　事そ思ほゆる　水江(みづのえ）の　浦島の子が　堅魚(かつを）釣り　鯛釣り矜(ほこ）り　七日(なぬか）まで　家にも來ずて　海界(うなさか）を　過ぎて漕(こ）ぎ行くに　海若(わたつみ）の　神の女(をとめ）に　たまさかに　い漕ぎ向かひ　相誂(あひとら）ひ　こと成りしかば　かき結(むす）び　常世(とこよ）に至り　海若の　神の宮の　内(うち）の重(へ）の　妙(たへ）なる殿に　携(たづさ）はり　二人入り居て　老(お）いもせず　死(し）にもせずして　永きよに　ありけるものを　世の中の　愚人(おろかひと）の　吾妹子(わぎもこ）に　告(つ）げて語らく　須臾(しましく）は　家に帰りて　父母に　事も告(かた）らひ　明日のごと　われは來(き(き）なむと　言ひければ　妹(いも）はいへらく　常世邉(とこよへ）に　また帰り來て　今のごと　逢はむとならば　このくしげ　開くな勤(ゆめ）と　そこらくに　堅い(かた）めし言(こと）を　墨吉(すみのえ）に　還り來(きた）りて　家見れど　家も見かねて　里見れど　里も見かねて　　恠(あや）しと　そこに思はく　家ゆ出でて　三歳(みとせ）の間(ほと）に　垣(かき）も無く家滅(う）せめやと　この箱を　開きて見てば　もとの如(ごと）　家はあらむと　玉くしげ　少し開くに　白雲の　箱より出でて　常世邉(とこよへ）に　棚引くきぬれば　立ち走り　叫び袖振り　反側(こいまろ）び　足ずりしつつ　たちまちに　情消失(こころけう）せぬ　若かりし　膚(はだ）も皺(しわ）みぬ　黒かりし　髪も白(しら）けぬ　ゆなゆなは　氣(いき）さえ絶えて　後つひに　命死にける　浦島(うらしま）の子(こ）が　家地(いへどころ）見ゆ(―　春の日の霞んでいる時に、墨吉の岸に出ていて、釣船の揺れているのを見ると、昔の事が思われる。水の江の浦島の子が堅魚を釣り、鯛を釣って得意になって七日までも家に戻らず、海の境を越えて漕いで行くと、海神の女にたまたま出会い、結婚の話をし合って同意が出来たので、約束を固めて常世の国に着き、海神の宮の内の囲いの立派な御殿に二人で手を取り合って入り、年も取らず、死にもしないで長いあいだ居たと言うが、世にも愚かな浦島の子は、海神の女に告げて言うには、「しばらくは家に帰って、父母に事の次第をも物語り、明日にでも自分は戻ってこよう」と言ったので、海神の女が言うには、「この不老不死の仙境にまた戻ってきて、今のように会いたいとお思いならば、この箱を決してお開きなさいますな」と、固く禁じたのに、墨吉に帰ってきて自分の家を見ようとするけれども、家を見つけることが出来ず、住んでいた里を探しても里も何処とも分からずに、おかしいと思って、そこで考えるには、家を出て三年の間に、垣根も家もなくなることがあろうかと、また、この箱を開いて見たならば、もとのように家が現れると思って、美しい箱を少し開けてみたところ、白雲が箱から出て、仙境の方に棚引いたので、立って走り、叫んで袖を振り、転がり廻り、足ずりをしながら、たちまちに気を失ってしまった。若々しかった肌もしわんでしまった。黒かった髪も白くなってしまった。後には息までも絶えて、その後とうとう死んでしまったと言う。水の江の浦島の子の、家があったあたりが見えるよ）――　生きながら仙境に至り、夢のような幸せを体験した者は、二度とは同じ幸運な体験をすることは出来ないと、この浦島の物語は教えているのだろうか。現世と常世とは同時に存在しているが、現実の人間の身で二つの世界の幸せを同時に味わうことは不可能なのだと、欲深な我々に諭しているかのように思われる。憂き世とばかり感じていた現世は、常世の国に生活してみるとかけがえのない有難い世の中であった事を、却って顕にしてくれたわけであろうか。理想と現実は相反するものなどではなく、同時に矛盾なく併存し得るものなのだろう。幸福の青い鳥が遥かな山のあなたにではなくて、ごく身近な所に発見出来るものであるように、我々の生活には何一つとして不足しているものなどは元来なかったのだ。その事を、昔の人だけでなく今人である現代人も強く認識すべきなのではあるまいか。我々は自分自身の愚かさのために、或いは、欲深さの故に、あたら貴重な宝物を捨てて顧みない愚を、行い続けている。そんな風に、浦島の御伽噺から教訓を得ることも別に恥ずかしいことなどではないのではなかろうか。　常世邉(とこよへ）に　住むべきものを　劔(つるぎ）刀(たち）　己(な）が心から　鈍(おそ）やこの君(―　不老不死の仙境に住んでいられたものを、自分の心からとて、何と間の抜けたことなのだ、このお人は）　級(しな）照る　片足羽川(かたしはがは）の　さ丹塗(にぬり）の　大橋の上ゆ　紅(くれなゐ）の　赤裳裾(あかもすそ）引き　山藍(あゐ）もち　摺(す）れる衣(きぬ）着て　ただ獨り　い渡らす兒(こ）は　若草の　夫(つま）かあるらむ　橿(かし）の實(み）の　獨りか寝(ぬ）らむ　問はまくの　欲(ほ）しき我妹(わぎも）が　家の知らなく(―　片足羽川の赤く塗った大橋の上を、紅の赤裳の裾を引いて、山藍で摺染めにした衣を着てただひとり渡っていく子は、夫があるのだろうか。独り寝るのであろうか。それを聞きたく思う、この可愛い女の家は何処であろうか）　大橋の　頭(つめ）に　家あらば　うらがなしく　獨り行く兒に　宿(やど）貸さましを(―　大橋のたもとに自分の家があったならば、悲しそうに独り歩いていくあの子に宿を貸すのだが）