「万葉集」に親しむ その百二十三
能登川(のとがは)の 水底(みなそこ)さへに 照るまでに 三笠の山は咲きにけるかも(― 能登川の水底までも照るほどに三笠の山の花が咲いたことであるよ) 雪見れば いまだ冬なり しかすがに 春霞立ち 梅は散りつつ(― 積もった雪を見るとまだ冬である。とは言っても、春の霞は立ち、梅の花は散って…) 去年(こぞ)咲きし 久木(ひさき)今咲く いたづらに 地(つち)にや落ちむ 見る人なしに(― 去年咲いた久木・アカメガシワの花が今咲いた。しかし、むなしく土に落ちることであろうか。見る人もなしに) あしひきの 山の間(ま)照らす 櫻花 この春雨に 散りゆかむかも(― 山の間を照らしている美しい桜の花が次第に散っていくのであろうか、今降っている春雨に急かされて) うちなびく 春さり來(く)らし 山の際(ま)の 遠き木末(こぬれ)の 咲き行く見れば(― 草木が繁茂する春がやって来るらしい。山の間の遠い枝先の花が次第に咲いていくのを見ると) 春雉(きぎし)鳴く 高圓(たかまと)の邉(へ)に 櫻花 散りて流(なが)らふ 見む人もがも(― 雉が鳴いている高圓の辺に桜の花が散り、風に流れているのを見る人があって欲しいのだがなあ) 阿保山(あほやま)の 櫻の花は 今日もかも 散り亂るらむ 見る人なしに(― 阿保山の桜の花は、今日この頃散り乱れているであろうか。見る人もなしに) 自然を差配している造化の神は惜しげもなく美しい桜花を咲かせては直ぐに散らせてしまう。それを鑑賞して心を動かしている人間の思惑などはまるで気にもしていないのである。しかし、美しい眺めを見る人は、何ともったいないことであると、余計な気を使うのだ。自然だけではない、人間の世界にも、素晴らしい桜花の如き佳人が時として姿を現して、直ぐにこの世から姿を消しているようである。佳人とは見目麗しい女人とは限らない。男性であっても時と場所を選ばずにこの世に突如として姿を現し、人々から知られることもなくして、虚しく姿を消してしまっている例が少なくはないのではないかと想像される。佳人薄命とは世に言い習わしていることであるが、悪人ばかりが世にはびこっているのは、何とも人間達の行状がひど過ぎるからなのでありましょう。私・草加の爺には自戒の言葉として我々は素晴らしい素質を誰もが持って、或いは持たされてこの世に生まれてきている。それを生かしきれないのはそれぞれの努力ややる気の不足によるものであり、造化の神の全くあずかり知らぬ事柄なのだ。我々には四つの幸せが誕生以前にあらかじめ与えられていると、ブログなどで書いたことがある。自分が自分であること、人の和、地の恵み、天の配剤、がそれである。だから、誰でもこの世に生まれ出されて来た者であれば、誰もが労せずして「幸福長者」たる資格を備えている道理なのですよ。しかし、現実はそうはなっておらず、不幸三昧とでも称すべき輩がはびこっている始末なのは、どうしたことなのだろうか?それぞれが胸の前に手を置いて考えてみればよいことで、私があれこれ言うことは何もないのです。私の周辺でも佳人薄命の例にもれない儚い生を敢え無く終わらされているかの如くに思われる 善き人達 がいる。悲しくても、淋しくても、それは造化の神の思し召しと観念しなければならないことと、諦めている次第です。私に出来ることは、老醜を晒してブログなどで駄弁を労しながら、残された人生をかろうじて花見をしながら過ごすより手はないのです。この場合の花とは、見目麗しい女性との邂逅を意味するのですが、それが叶うか叶わないかは問題ではないのです。現在の私がそれを切に望んでいる事実だけが問題と言えば、問題なのです。私は紛れもなく一人の男なのですから、今でも、寿命が尽きるまで。 河蝦(かはづ)鳴く 吉野の川の 瀧(たぎ)の上(うへ)の 馬酔木(あしび)の花そ 末(はし)に置くなゆめ(― カジカの鳴く吉野川の激流のほとりの馬酔木である、粗末にするな、決して) 春雨に 爭ひかねて わが屋前(やど)の 櫻の花は 咲き始(そ)めにけり(― 春雨に抵抗しかねて、私の家の庭先の桜の花は咲き初めたことである) 春雨は 甚(いた)くな降りそ 櫻花 いまだ見なくに 散らまく惜しも(― 春雨よ、そう仰山に降らないでくれ。私が美しいと賞美している桜花がまだ見ないうちに散ってしまうのが、惜しまれるので) 春されば 散らまく惜しき 梅の花 暫(しまし)は咲かず 含(ふふ)みてもがも(― 春になると散るのが惜しい梅の花よ。暫くは咲かずにつぼみのままでいてほしい) 見渡せば 春日の野邊に 霞立ち 咲きにほへるは 櫻花かも(― 見渡すと春日野の辺に霞が立って、色鮮やかに咲いているのは桜の花だろうか) 何時(いつ)しかも この夜の明けむ 鶯の 木傳(こつた)ひ散らす 梅の花見む(― この夜は何時明けるのだろうか。ウグイスが枝を伝って鳴く梅の花が早く見たい)