シェークスピアのソネット その六
私が安らかに死を迎える日が来ても、君が私よりも生きながらえてくれて、死神という非人が私の骸に土を被せても、ふとした拍子に私が嘗て君をこよなく愛して捧げた詩歌を読み直す時が来たら、それがどれほどに拙くて、粗雑だったとしても、当代を代表する優れた詩人達の大層進歩した技に比べて、仮に誰彼からも追い越されて、打ち負かされていようとも、詩詞そのものの価値からではなくて、私の比類なく大きな愛情の故に廃棄などせずに、取っておいて呉れたまえ。技量や詩想が詩才豊かな者達の影に隠されてしまったとしても、ああ、君よ、我が最愛の恋人よ、こう思いやってくれたなら嬉しいのだが、詰まり、私の愛しい友人の詩心がこの進歩の時代とともに成長してくれていたら、彼の自分への愛情はこれよりも高貴な作品を生み出し、もっと華やかできらびやかな作品と肩を並べて歩んだであろう、と。だが、彼は既になくて、詩人たちは進歩して止まない、彼等の詩は文体を愛でて、彼の詩は愛を愛でて読もう、と。 以上が三十二聯です。シェークスピアのこのへりくだった謙遜の言葉は文字通りには謙遜であって謙遜ではない、非常な自己への確固たる自信が透けて大きく顔をのぞかせている。エセ詩人たちだけが世にはびこっているのは彼の時代だけでははなくて、いつの時代でも大同小異なので、人類史上に傑出した大天才が自己を正当に評価できない筈もなく、ごく一般的で平凡な措辞を使用して、さりげなくさらりと言ってのけているところが、彼らしい言い回しと私には心にくく感じられてならない。 第三十三聯、私はこれまでに何度となく見てきている、光眩い朝が王者に相応しい眼差しを投げ掛けて山脈の峰々を励まし、金色の光の箭を送り緑の牧場に挨拶の接吻を贈り、天空の錬金術を以て鉛色の流れを金色に変えるのを。だが、やがては真っ黒な不吉な雲が湧き上がって、醜悪なちぎれ雲となり、清浄な天の顔を覆い、戸惑っている世間から美々しい玉顔を押し隠すと、その汚辱を濯ぎもせずに、姿を見せる事もなく、こっそりと西への旅路を急ぐのを、私は見てきた。私の太陽たる友人もこれと同じで、ある日の早朝に眩いばかりの光を放って私の顔に輝いた、だが、何としたことであるか、私のものであったのはほんの一時間ほどであった、今は天の雲が彼を私から隠してしまった、だからと言って、私の強い揺るぎない愛情はいささかも彼を蔑むことはない、天の太陽が曇るのならば、この世の太陽だって輝きを失うのは必定なのだ。 批評家などの注釈によれば、詩人とその愛人たる青年との間に何か強い葛藤が生じて、これに続く数聯がその事件を廻っての連作と言う緊密さを有しているものらしい。 第三十四聯、何故に君は、素晴らしい一日が始まると言って、外套も着せずに旅に送り出しておきながら、黒雲を放って道中の半ばで私を捕らえさせて、その美々しい姿を瘴気(しょうき)の中に隠したのか、雲の間からちょいと覗いて、嵐に打たれた私の顔の雨水を乾かすと言うのでは、とても十分とは言えまい。傷は治すけれども、傷痕までは直さないなどとは、誰だってそんな軟膏を褒めるわけにはいかない、また、君の後悔が私の生々しい苦痛の薬になるわけでもない、たとい君が悔いたところで私が大変な損をしたことにはかわりはないさ。人を傷つけてから悲しんだところで、ひどい目に合わされて受難の十字架を負う者には、たいして慰めにはならない。ああ、だが、だが、君の愛が流すこの涙はさながら大粒の真珠だ、これはまさに値打ちもので、どのような非行でも贖(あがな)ってあまりある…。 所で、劇とは、ドラマとは、芝居とは何だろうか? シェークスピアは劇作の大大天才であった。端的に言ってその本質は「人間的である」ことにあるだろう。人間は自然に生きていると同時に、自己の生き方を含めた人間のあり方を自覚して楽しみたいと言う欲求に駆られる存在でもある。人間にとって一番の興味の対象は自己自身なのだ。劇、芝居は一種の儀式として自己を見つめ、自己を分析して、また客観的に自分を眺めて楽しむ娯楽でもあった。劇的とは人間的と同義語である。自分はあんなにも滑稽であり、時にはあれほどまでに正義感に燃え、殺人を犯し、人妻を誘惑し、王位を簒奪もする。賤しくも有り同時に高貴で清浄でもある、何て矛盾に満ちてバカバカしく、時には神にも等しく尊貴なのであろうか。プライドを無闇と気にかけるかと思えば、なんの理由もなく下卑て犬畜生にも劣る下賤な行為にも走る。一体、自分とは、人間とは何者なのであろうか…。詩人は、劇作家は、こうした人間的な好奇心からスタートして途轍もなく切り立った嶮峻なる山の高みへと至る。そこからの眺望がどのようなものであったかは、彼の創作した作品を鑑賞すればある程度までは理解可能だ。 このソネットでは、詩人と愛人兼友人たる美青年と、詩人の愛人と、黒の貴婦人と呼ばれる高級娼婦めいた謎の女性が主たる登場人物であるが、これはさながら下界の世俗社会を象徴する人物グループとも言え、そこに展開するドラマティックな葛藤・心理的衝突は人間界の縮図とも解釈できよう。この長編ソネットで詩人が目論んでいるのはフィクションだけでは描ききれなかった人間劇の発展系を現実の只中に別個に構築しようという、ある種壮大な計画の実践遂行なのであって、シェークスピアは並々ならぬ野望でこの冒険に果敢に挑戦し、見事に成功を収めている。私はいささか先走り過ぎてしまったようですが、これまでに誰もが実現できていない自由翻訳の代替物として、私は素人の立場から自由自在に視点を変えたり、玄人には難しい解釈を持ち込んだり、巨大な建築物に様々な視点からアプローチを試みて、傑作の傑作たる所以を殆ど詩や劇などにも関心を持っていなかった人々にも、改めて注目して頂くきっかけになればと、しかしながら私の関心は自分自身が半歩でも、四分の一歩でも大詩人の傑作世界に近づきたいが為のお気楽な道楽仕事を、心ゆくまで楽しむ所存なのです。世のため人の為を一応は標榜しながらも、元はしっかりと取っている、結構、お人好しだけではない酷暑の格好の消夏法でもあるわけですね、実際のところ。散文でさえ、意味は二の次で、言葉の調子、抑揚、リズム、高低など音の流れ等が主としたものであるわけで、韻律や詩歌は尚の事複雑多岐を極める世界ですから、どうぞ皆様方も悠長に構えて人間の言葉を堪能する一端として、このソネットの下手な解説を斜め読みなりしていただき、詩一般への関心と興味を深めて頂けたなら、これに過ぎる幸せはありません。 第三十五聯ですが、もうこれ以上君が行った事柄を悲しむのはよしたまえ、美しい薔薇には必ず鋭いトゲがあるし、清澄透明な泉にも泥の底が控えている。大空に輝く日や月にさえそれを翳らせる日蝕や月蝕があるのだ。こよなく美しい花のつぼみにも忌まわしい虫が潜んでいる。人は誰でも過ちを犯すもの、この私だってその例外ではいられない、君の罪を他と引き比べては正当な行為なりだなどと認知し、君の軽率な罪を言い繕って、私自信を堕落させている始末、何故なら君の罪を殊更に軽く判定して見過ごそうとするのだからね。その上に、君の官能の罪悪を助けようとてとっときの分別を呼び入れ、この君の敵である者を君の弁護人に仕立て上げ、私自身を相手に法に則って訴訟騒動を起こそうという始末なのだよ、私の大きな愛情と激しい憎しみとはさながらに内乱状態にあるのだからね。私から酷(むご)くも奪い取る優しい盗賊がいれば、私はすぐさまその共犯者にならずにはいられないのだよ。 全体の趣旨は、相手の罪を庇うように見せかけて、その実、痛烈な皮肉、恨み言を述べるもので、こういう屈折したレトリックはこの後でもしばしば使われる。 第三十六聯、私達ふたりの愛が目出度く合体して、一つになったとしても、私達二人はやはり個別の二人で変わりないことを認めよう、だから君、私の身に付きまとっている特有の汚名に関しては、当然に君の手を借りずに私一人が背負わなければいけないのだ、気にしないでいて呉れたまえ、私達の二つの愛には一つきりの目標しかないが、私達の人生には二人を絶対的に裂く忌まわしい距離、高級貴族と一介の座付き作者たる実に賤しい身分の差、がある、この事実はひとつになった愛の働きを変えたりはしないが、愛情の喜びの盃から楽しい時間を掠め取るくらいの悪さはするだろう、私はこれからは二度と君に挨拶などはすまい、この嘆かわしい罪が君に恥をかかせたりしてはいけないのでね、だからお願いする、君も人前では私に優しい素振りを見せないでくれ、君の名誉ある名前に疵をつけたりしてはいけないからね、どうか、そんな真似はやめてくれ、私は心の底から君を愛しているのだから、君自身だけでなくて、君の輝かしい名声も我が物にしたいのだ。 続いて第三十七聯、耄碌して老いさらばえた父親が、活気にあふれる我が子の若々しい振舞いを見て喜びを覚えるように、私も運命の女神に手酷く憎まれて、足萎えになりはしたが、君の優れた人柄と誠実な心に慰めを見出している。美と家柄と、富と知恵と、このいずれかが、又はこの全てが、或いはこれを超えるものが、君の美徳の最高主権者となり王座を占めようとも、この豊饒な徳の宝に私は自分の愛を接木するのだ。そうなればもう、私は足萎え、貧乏人、卑賎の身のどれでもない。こうした幻影が堅固な実体を作り出してくれるから、私は君の豊かさにすっかり堪能してあらゆる栄光に與りながら生きることになる、それゆえに最善の物が全て君に備わることを私は願うのだ、そう望みさえすれば私はもう十倍も幸福になるのだからね。 第三十八聯、私が信奉する詩の女神が題材に事欠くはずもない、何しろモデルとしては最高の君が現に生きていて、君という格好の美しい主題を私の主題に注ぎ込んでくれるのだから、これは、そこらへんのヘボ詩歌の中で、使用させるには勿体なさ過ぎる。ああ、ああ、君よ、私の詩の中で読むにたるものが目に止まったならば、その時は君自身に礼を述べてくれたまえよ、君自身が私の想像力に光明を与えてくれるのに、その君に対して黙りこくって何も書けない者などいるものか、いやしないさ、君は第十番目のムーサイになり、へぼ詩人達が呼びかける昔の九人の詩神達よりも十倍多い御利益を授けてくれ。そうして、君に祈りを授ける者にはこれからも長くこの世に残る不朽の名詩を産ませてやってくれ。私のか弱い詩神が気難しい当世人を楽しませるのなら、苦労したのは私であっても、賞賛を受けるべきなのは、君なのだ、そう、君なのだからね。