続「万葉集に親しむ」 その三十四
ももきね 美濃(みの)の國の 高北(たかきた)の 八十一隣(くくり)の宮に 日向尒 行靡闕イ ありと聞きて わが行く道の 奥十山(おきそやま) 美濃の山 靡けと 人は踏めども 斯く寄れと 人は衝(つ)けども 心無き山の 奥十山 美濃の山(― 美濃の国の高北の八十一隣の宮に…があると聞いて、私が通っていく道にある奥十山、美濃の山よ。もっと低くなれと人人は踏むけれどこう寄れと人は突くけれど、さっぱり応じない、心無い奥十山、美濃の山よ)少女(おとめ)等(ら)が 麻笥(まけ)に垂(た)れたる 績麻(うみを)なす 長門(ながと)の浦に 朝なぎに 満ち來る潮の 夕なぎに 寄せ來る波の その潮の いやますますに その波に いやしくしくに 吾妹子(わぎもこ)に 戀ひつつ來れば 阿胡(あご)の海の 荒磯(ありそ)の上に 濱菜つむ 海人少女(あまをとめ)ども 纓(うな)がせる 領巾(ひれ)も照るがに 手に巻ける 玉もゆららに 白栲(しろたへ)の 袖振る見えつ 相思ふらしも(― 少女らが麻笥に垂らしている績麻のように長い、長門の浦に、朝凪に満ちくる潮、夕凪に寄せてくる波、その潮のようにいよいよますます、その波のようにいよいよしきりに、吾妹子を恋しく思いつつやって来ると、阿胡の海の荒磯のあたりで浜菜を摘む海人の少女らが首にかけている領巾も照る程に、手に巻いた玉を鳴らして、白栲の袖を振るのが見えた、思う人がいるらしい)阿胡の海の 荒磯(ありそ)の上の さざれ波 わが戀ふらくは 止(や)む時もなし(― 阿胡の海の荒磯のほとりのさざ波が止むときもないように、私の恋は止むときがない)天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も 高くもがも 月讀(つくよみ)の 持てる變若水(をちみず)い取り來て 君に奉(まつ)りて 變若(をち)得(え)しむ(― 天に昇る梯子も長くあって欲しい、高山も高く有ってもらいたい。月の神の持っている若返りの水を取って来て、わが君に奉って若がらせようものを)天(あめ)なるや 月日の如く わが思へる君が 日にけに 老ゆらく惜しも(― 天にある日月のように私の思っている君が日増しに老いていかれるのが残念であるよ)渟名川(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾(ひり)ひて 得し玉かも 惜(あたら)しき 君が 老ゆらく惜しも(― ぬな川の底にある立派な玉。私がやっと探し求めて手に入れた玉。やっと拾って手に入れた玉。やっと見つけて拾った玉。この素晴らしいあなたが年を取っていかれるのが本当に惜しい)磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の國に 人多(さは)に 満ちてあれども 藤波の 思ひ纏(まと)はり 若草の 思ひつきにし 君が目に 戀ひや明(あ)かさむ 長きこの夜を(― 大和の国に人は多く満ちているけれども、私の心が纏わりつき離れない、美しいあなたの目を恋しく思って、この長い夜を明かすことでしょうか)磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の國に 人二人 ありとし思はば 何か嘆かむ(― この大和の国の中に私の恋しい人が二人あるのだったら、どうして嘆いたりいたしましょうか)蜻蛉島(あきつしま) 日本(やまと)の國は 神(かむ)からと 言擧(あげ)せぬ國 然れども われは言擧す 天地(あめつち)の 神もはなはだ わが思ふ 心知らずや 行く影の 月も經行(へゆ)けば 玉かぎる 目もかさなり 思へかも 胸安からぬ 戀ふれかも 心の痛き 末つひに 君に逢はずは わが命の 生(い)けらむ極(きはみ) 戀ひつつも われは渡らむ 眞澄鏡(まそかがみ) 正目(まさめ)に君を 相見ばこそ わが戀止まめ(― 大和の国は領する神の性格として、言葉に出して言い立てない国である。しかし私はあえてはっきり言おう。天地の神も全く私の心を知らないのだろうか。月が経っていき、日も重なり、君を思う故か胸は安からず、君を恋うる故か心が痛む。もし将来ついにあなたに会えないならば、生命の続く限り恋い焦がれながらも私は長らえていこう。直接お目にかかったならば私の恋は止むであろうが)大船の 思ひたのめる 君ゆゑに 盡す心は 惜しけくもなし(― 大船のように頼みにしているあなた故に、さまざま心を尽くすのは、何の惜しいこともありません)ひさかたの 都を置きて 草枕 旅ゆく君を 何時とか待たむ(― この立派な都をおいて旅に出るあなたを、お帰りは何時と思ってお待ちしたらよいでしょう)葦原の 瑞穂(みずほ)の國は 神(かむ)ながら 言擧(ことあげ)せぬ國 然れども、言擧ぞわがする 事幸(ことさき)く 眞幸(まさき)く坐(ま)せと 恙(つつみ)なく 幸(さき)く坐(いま)さば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 百重波 千重波しきに 言擧(ことあげ)すわれ 言擧すわれ(― 葦原の瑞穂の国は、支配なさる神の御性格として、言挙げをしない国である、しかし私は敢えて言挙げをする、お幸せでご無事でと。もし、お障りなくご無事であれば後にもお目にかかりたいものですと。百重波、千重波、が寄せてくるように、私は重ねて言挙げ致します、言擧げを致します)磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の國は 言靈(ことたま)の 幸(さき)はふ國ぞ ま幸(さき)くありこそ(― 日本という国は言霊が幸いをもたらす国です、私のこの言葉でご無事で行ってきて下さい) 古(いにしへ)ゆ 言ひ續(つ)ぎ來(く)らく 戀すれば 安からぬものと 玉の緒の 繼(つ)ぎてはいへど 少女(をとめ)らが 心を知らに 其(そ)を知らむ 縁(よし)の無ければ夏麻(なつそ)引(ひ)く 命かたまけ 刈薦(かりこも)の 心もしにに 人知れず もとなそ戀ふる 息(いき)の緒にして(― 昔から恋をすれば苦しいものと言継できているが、全くその通りで、少女の気持ちが分からず、それを知る手掛かりもないので、命を傾け、乱れて心もひと向きに人知れず、留めるよしもない恋をすることです、命を懸けて)しくしくに 思はず人は あるらめど しましもわれは 忘らえぬかも(― あの人はあんまり私を思ってくれないようだが、私の方はしばらくも忘れることができないでいるよ)直(ただ)に來ず 此(こ)ゆ巨勢道(こせぢ)から 石橋(いははし)踏(ふ)み なづみぞわが來(こ)し 戀ひて爲方(すべ)なみ(― 直接行かずに、此処から巨勢道を通って、石橋を踏み、難渋して私は来た。恋しくて仕方がないので)あらたまの 年は來(き)去(ゆ)きて 玉梓(たまづさ)の 使の來(こ)ねば 霞立つ 長き春日を天地(あめつち)に 思ひ足らはし たらちねの 母が飼(か)う蠶(こ)の 繭隠(まよこも)り息衝きわたり わが戀ふる 心のうちを 人に言う ものにしあらねば 松が根の 待つこと遠く 天傳(あまつた)ふ 日(ひ)の闇(く)れぬれば 白木綿(しろたへ)の わが衣手(ころもで)も 通(とほ)りて濡れぬ(― 年は来て去っても君の使いは見えないので、霞が立つ長い春の日を天地に満ちる恋の思いを、母の飼う蚕が繭に隠れていぶせく苦しいように、いぶせくて苦しく嘆き暮らし、恋する自分の胸の中は人に語るべきものではないから、一人待つ事久しい折柄、大空を渡る日も暮れてしまったので、白栲の衣の袖も濡れ通ったことである)斯(か)くのみし 相思はざらば 天雲(あまくも)の 外(よそ)にそ君は あるべくありける(― こんなに思ってくださらないなら、あなたは、大空を行く雲が我々に無縁であるように、始めから私とは無縁であるべきでした)小治田(をはりだ)の 年魚道(あゆぢ)の水を 間無(まな)くそ 人は汲(く)むとふ 時じくそ 人は飲むとふ 汲む人の 間無きが如 吾妹子(わぎもこ)に わが戀ふらくは 止む時もなし(― 小治田の年魚に行く道の水を、絶えることなく人は汲むと言う、時を定めず人は飲むと言う。汲む人の絶え間のないように、飲む人の時を定めないように、妹に対する私の恋は止むときがない)思ひやる 爲方(すべ)のたづきも 今はなし 君に逢はずて 年の經(へ)ぬれば(― 何とも胸の思いを慰める慰めようも今はありません、あなたに逢わずに年が経ちましたから) この君は妹の方が適切であろう。みづかきの 久しき時ゆ 戀すれば わが帯緩(ゆる)む 朝夕(あさよひ)ごとに(― ずっと以前から恋しているので、私は痩せて帯がゆるむ、朝に夕に)隠口(こもりく)の 泊瀬(たつせ)の川の 上(かみ)つ瀬に 齋杭(いくひ)を打ち 下つ瀬に 眞杭(まくひ)を打ち 齋杭には 鏡を縣け 眞杭には 眞玉を縣け 眞玉なす わが思ふ妹(いも)も 鏡なす わが思うふ妹も ありと言はばこそ 國にも 家にも行かめ 誰(た)がゆゑ行かむ(― 泊瀬川の上の瀬には齋杭を打ち、下の瀬には真杭を打ち、齋杭には鏡を掛け、真杭には真玉を掛けてお祭りするが、その真玉のように大切に思う妹が生きているというのならばこそ、私は国へも家にも帰ろうが、さもなくて、誰故に帰ろう、帰りはしないのだ) この歌は古事記を参照すれば、木梨輕太子(きなしのかるのみこ)が逝去される際に作られた御歌であろうと言う。年わたるまでにも 人は有りといふを 何時の間(ま)にそも わが戀ひにける(― 年を経るまでも人はそのまま辛抱していると言うのに、この間違ったばかりの私がいつの間にこんなに恋しく思うようになったのだろう)世間(よのなか)を 倦(う)しと思ひて 家出(いへで)せし われや何にか 還りて成らむ(― 世間を厭って出家した私は還俗して何になろうか、何にもなるものではない)春されば 花咲きををり 秋づけば 丹(に)の穂(ほ)にもみつ 味酒(うまさけ)を 神名火山(かむなびやま)の 帯にせる 明日香(あすか)の川の 速(はや)き瀬に 生(お)ふる玉藻のうち靡き 情(こころ)は寄りて 朝露の 消(け)なば消(け)ぬべく 戀ふらくも しるくも逢へる 隠妻(こもりづま)かも(― 春になると花がいっぱいに咲き茂り、秋になると真っ赤に色づく神名火山が帯と巡らしている明日香川の早瀬に生えている玉藻のように、うちなびいている心はあなたに寄り、朝露のように消えるならば消えていいと、命をかけて恋していた、そのかいあって今こうして会うことの出来た隠し妻よ)明日香川 瀬々の珠藻の うち靡き 情(こころ)は妹に 寄りにけるかも(― 明日香川の瀬々の珠藻のなびくように、私の心は今妹にすっかり靡き寄ってしまったことである)三諸(みもろ)の 神名火山ゆ との曇(くも)り 雨は降る來(き)ぬ 雨霧(あめき)らひ 風さへ吹きぬ 大口の 眞神(まかみ)の原ゆ 偲(しの)ひつつ 歸りにし人 家に到りきや(― 三諸の神名火山から一面に曇って、雨は降って来た。雨は霧のように降って風までも吹いてきた。真神の原を通って、私を思いながら帰っていったあの人は、家に着いたかしら)歸りにし 人を思うふと ぬばたまの 其の夜はわれも 眠(い)も寝(ね)かねてき(― 帰っていった人を思うとて、その夜は私も眠れませんでした)さし焼(や)かむ 小屋(をや)の醜屋(しこや)に かき棄(う)てむ 破薦(やれこも)を敷きてうち折れむ 醜(しこ)の醜手(しこて)を さし交(か)へて 寝(ぬ)らむ君ゆゑ あかねさす 晝はしみらに ぬばたまの 夜(よる)はすがらに この床(とこ)の ひしと鳴るまで 嘆きつるかな(― 火をつけて焼きたい、憎らしいボロ小屋に、破り捨てたい破れゴモを敷いて、折れちまえばいいごつい手をさし交わして、今頃女と寝ているお前さんだのに、私は昼は一日、夜は一晩中、この床がミシミシ言うほどに嘆いていることだ)わが情(こころ) 焼くもわれなり 愛(は)しきやし 君に戀ふるも わが心から(― 自分の胸を焦がすのも私だし、あああああ、お前さんへの恋に苦しんでいるのも私の心によるものなのだ)