カテゴリ:せいなるくらし
念願の「一番さん」(霊山寺)にお参りできて、満足だったはずなのに気が晴れない私。
結局自分の「願い」がこんがらがって、最後にお願いしたのは 「いいしごとができますように」 というようなもの。 (おかげさまでその後のお仕事はうまくいったのだけど) 今回お参りするときは、いわゆる「家内安全・商売繁盛・願望成就」というような現世利益的な「お願い」は「なし」にしようと心に決めていた。 しかし、どのような「お願い」をひねり出しても、それは結局私利私欲的な臭いがぷんぷんする。 「清い願い」を模索すればするほど、自分が穢れていくような気がするのだ。 そんなふうにずっともやもやと考えて、すっかり疲れて行き詰ったとき、ふと「その考え」がやってきた。 願われているのは私ではないか。 …それは不思議な瞬間だった。 「あ、そうか!」と一気に気が晴れるような。 「私が」願うから、エゴでしかないんだ。 どんな願いも「私が」するかぎり、私利私欲でしかないんだ(「たとえ世界人類みんなが幸福でありますように」と願ったとしても)。 願われているのは、私のほうだ。 私はその「あちら側」からの願いにこたえるしかないではないか。 これは人に説明するのは難しい感覚だ(だからうまく説明できない)。 この、主客が逆転する感じ。 尊い、そして得がたい体験をさせてもらった。 縁あってこの地を訪れることができたことに、心から感謝している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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