オードリーと西行
ふと手に取った映画雑誌で、「映画俳優ベスト100」のような企画をしてました。 ショックだったのは、女優の第一位がオードリー・ヘップバーンだったこと(男はジョニー・デップ)。……撰に入っているの俳優の大半が現役なのは、読者投票という性格上、仕方がない。どっちかといえば人気投票に近いのも、仕方がない。でも、オードリー・ヘップバーン。 同じヘップバーンだって、キャサリン・ヘップバーンならわからないこともありません。アカデミー主演賞四回という前人未到の記録を打ちたてた名優です(男女、主演助演ともに四回はキャサリン・ヘップバーンのみ)。じゅうぶんにリストのいちばん最初に名前があがる資格はあると思うんだけどなあ。 美人という基準で選ぶなら――キャサリン・ヘップバーンの顔もぼくは好きなんですけどね。特に中年になってからがいい――、イングリッド・バーグマンでもいいはずで、彼女が三十何位というのはおかしい。そもそもオードリーは、フレッド・アステアと撮ったミュージカルの題名が「funny face」(邦題『パリの恋人』)だったくらいで、ハリウッドの古典的な基準からすれば美人の部類には入らないはずです。 映画女優らしさという点を強調するなら、グレタ・ガルボを落としてはいけない。かつて「神聖ガルボ帝国」とまで言われた大女優なのに、このリストには名前すら入ってませんでした。オーラという点では、彼女はほかの女優を圧倒してると思うんだけどなあ。 しかし、それではなぜオードリーが一位なのか。 たぶんそれは、彼女が神話化された存在だからでしょう。もはやわれわれにとってオードリー・ヘップバーンという女優は、『ローマの休日』がどうの(あんまり演技うまくない)、『ティファニーで朝食を』がどうの(化粧が変)、『パリの恋人』がどうの(バレエ・ダンサー志望だったのにこの程度しか踊れないの?)、という段階にはない。みんな、映画を一本も見ていなくたって、オードリーという神話を知っている。逆にいえば、彼女が出演した映画がどんな愚作ばっかりだとしても、もはやそんなこととは関係ない世界で、オードリーというひとつのキャラクターが成立してしまっているのです。 たとえば、日本人になじみのふかいキャラクターに「西行」というのがある。風狂漂泊の歌人というイメージがわれわれのなかで確乎として成りたってしまっているけれど、そのじつ西行の歌を読んだことのある人なんてほとんどいない。しかしそれにもかかわらず西行というキャラクターには高い人気がある。業平とか、義経というのも、これと同じようなものでしょう。 つまり、作品をつくりだす人というのとは別な次元において、その人の存在そのものがひとつの作品である人、というのがある。キャサリン・ヘップバーンは前者であり、オードリー・ヘップバーンは後者であって、しかしつねに作品よりも神話のほうが長持ちする。あるいはアウラをまといつづける。 そのことは、リストに入っていた故人の名前を挙げてみれば明白です。バーグマンのほかには、オードリー、マリリン・モンロー、グレース・ケリーの三人だけ。彼女たちが、ハリウッドという舞台において、その神話を手に入れることのできた女神であることは、おそらくだれしもが否定しないところでしょう。……映画女優としては二流だったこととともに。