旧稿 13
3 戦前社会における唯一のイデオロギーであった帝国主義について、司馬遼太郎は『この国のかたち』のなかでかう定義づけをしてゐる(「「雑貨屋」の帝国主義」)。 過剰になった商品と、カネの捌け口を他に得るべく─つまり企業の私的動機か ら─公的な政府や軍隊をつかう、というやり方 すなはち、この引用の前段で彼がいつてゐるやうに、帝国主義とは産業革命以降の英国をもつて一典型とする経済的な体制であつて、産業と金銭を抜きにしてはなにも語ることはできない。このやうな体制下においては、原材料の供給地と商品の市場として植民地を獲得し、その支配を維持するために陸海軍(ことに海軍)を増強することが求められ、そしてこれらの経済的な側面を政治理論として裏付けするために、経済発展および海外進出至上論と国粋主義が叫ばれる。皮肉なことに、まさしくこの推移はマルクス主義史観における下部構造から上部構造への影響といふあの理論そのままであつて、じつはこの嫌悪すべき帝国主義的思考律といふやつは理論として先に存在したものではなく、経済的状況を後追ひして登場したものにほかならないのだ。 ところが、この日本といふわけの判らない国は、あらうことか帝国主義的思考律といふ理論面からこれを取入れてしまつたのであつて、おなじく「「雑貨屋」の帝国主義」から引くならば、「タオル(それも英国綿)とか、日本酒とか、その他の日用雑貨品」程度の商品しか輸出にまはせないやうな経済状況のなかで、「国が大きくなるのは、なんとなく嬉しくて、恰好のいいことでせう」 といふ小児的発想によつて朝鮮を併合し、満州国を作り、中国と東南アジアに進出しはじめたのである。 いつたいに日本の近代化といふやつは、あまりに急ぎすぎたこととおもに書物によつて西洋を理解したせいで、範とした十九世紀の欧州社会を前後の伝統と断絶したかたちで輸入することになつた分野が多く、例へば文学においては自然主義があつても浪漫主義と古典主義ははなはだ不完全なかたちでしか存在せず、医学は文藝復興期に人文科学として扱はれた側面を抜きにしてただの技術として導入され、数学にいたつては哲学と密接な結びつきを持つてゐた伝統をまつたく無視してただの数遊びになつてしまつたのにほかならない。それらのうちで最大の失敗(?)がこの帝国主義の移入であつて、欧州における産業と経済の発展によつて自然に成立してゆく過程には気づかず、ただその結果として生れた海外進出論と国粋主義だけがもてはやされた、といつても過言ではないだらう。そしてそのために、タオルと日本酒と日用雑貨の国が自国の何倍も広い領土を得ようとして世界中の大半の国と事を構へることになつてゆく。いはばそれだけの実力もないのに、帝国主義といふ政策をふりかざすことによつて自分が世界の一等国(といふいひ方を、大正から昭和の初めまでの日本人はよくした)であることを確認し、そのことに陶酔してゐたのである。 まことにこの時代のこの国は、阿呆とか、痴呆とか、さういふことばでしか表現のしやうがないのだが、しかしそれよりもさらに重大なことは、かうした平明な経済的思考や、日本史における近代主義の考察や、明治憲法の解釈に関する論考から戦前社会への反省を科学的に導き出し、それを判りやすい口調で述べた人物は、司馬遼太郎が登場するまでほとんど皆無に近かつたといふ事実だらう。さう、誰も! 誰もそのことをいはなかつた。すくなくとも、一九八〇年代における司馬遼太郎のやうに社会的影響力のある人間が、これもまた社会的影響力のある情報媒体のなかで、中学生にでも解る(私が最初に『この国のかたち』を読んだのは中学三年生のときのことである)文章によつて、かうした内容を書いたことは空前絶後だつた。『この国のかたち』といふ評論には、特にその第一巻には、なんとはなしに苦々しい口調が漂ふ。それが、右に述べたやうな「こんな当り前のことに誰も気づかないのか」といふ彼の苛立ちと、「かうしたことをきちんと伝へておかなければ、きつとまたおなじ過ちが起る」といふ、知識人たちの怠慢への憤りによるものだつたのではないのか、と思ふのはたぶん私だけではないだらう。