引用はむずかしい
このたびの法王の一件は、まことによくない。それも、法王もしくはカトリック教会の側が一方的によくない。 第一に論理的に破綻しているのがよくない。イスラムが聖戦を容認したことがキリスト教の立場から非難されるのであれば、かつて法王が組織して十字軍を起したことはどう釈明するのか。ちょっと考えてみただけでも、これは相手の都合のわるいところをほじくりだし、自分のよくないところは知らんぷりをする、論理的にいちばん卑怯なやりかたである。 第二に発言が慎重さを欠いていたのがよくない。あくまで誤解であるということで押しとおすつもりらしいが、誤解を招くような発言をしたというところに問題がある。法王は聖人でも聖者でもなく、神の代理人である。カトリック教徒の代表である。バチカン市国の王である。おのずとそこにはひろい意味での政治的な立場というものがある。発言は慎重でなければならない。ましてイスラム世界との対話が国際的な問題となりつつある状況下でここまで政治的センスに欠けた発言をしてしまったあたり、今の法王はこの仕事に向いていないのかもしれない。 カトリック教会もよくない。法王をあくまで守るか、あわよくば頬かむりで済ませようという態度が濃厚で、一部の地域の教会を別にすれば法王を非難する動きは見られない。むろん教会というのは民主的な組織ではない。かつて林達夫が述べたように、その組織は共産党がお手本としたほど封建的にして軍隊的な(せいぜいよくいって民主集中制的な)上意下達の性質を持つ。批判はしにくいのかもしれない。しかしもしまともな知識人として、あるいは宗教者の良心を持つなら、誠実にカトリックの立場から法王を非難するべきだ。神の代理人だってかまいやしない。日本のある総理大臣はこういった。「天の声にもときどき変な声がある」。神さまだって人選を誤ることがあるかもしれない。 しかしいちばんよくないのは、「あれはあくまで引用部分であって」という言抜けである。これほど人をバカにした言い草はない。 引用部分はその人の意見ではない、ほかの人の意見である、という言いかたは、一見ひじょうにわかりやすい。引用というのは、ほかの人が言ったり書いたりしたものを、自分の発言や文章のなかに割りこませるものだから、自分の文章と引用の文章が異質であることは言うまでもない。まったく当りまえだといっていいくらいだ。 しかし、ここで大切なのは「自分の文章と引用の文章が異質である」ということがかならずしも「自分が文章によってあらわそうとしたことと、引用の文章がそれ自身あらわそうとしていることは異質である」ということにはつながらない点である。いや、むしろ、引用といういとなみは、「自分の文章と引用の文章が異質である」がゆえに「自分が文章によってあらわそうとしたことと、引用の文章がそれ自身あらわそうとしていることは同質である」という状況を達成しようとするものでなくてはならない。 ある文章を引用するか否かは、それを引用することの影響をも含めて引用者の責任である、というようなことを言いたいわけではない。そんなことはどうでもいい。ここで論じなければならないのは、文章を書き、そこに引用するというのが本質的にどのような行為であるかという問題である。 自分が書く文章と、他人が書いた文章(引用される文章)は別なものである。異質である。溶けあわない。一つにならない。たとえば文体がそうだ。志賀直哉の簡素きわまる文章と、野坂昭如のどこまでもうねうねつづく文章をひとつにまとめようとすると気持悪い。たとえば発想がそうだ。三島由紀夫の文章と大江健三郎の文章は、両方とも同じくらい懐柔で、欧文脈の文体だが、だからといってこれをくっつけてみても木に竹をついだようにしかならない。しかし、それでも人は引用する。なぜだろうか。 それは、引用文のなかに、みずからの文章とのある種の同質性を見出すからだ。根本的に違うものでありながら、ひと息、自分の言いたいことと共通のものを持っている。それゆえに引用する。あるいは自分が批判したいことを見事に書きあらわしている。だからそれを引用してこてんぱんにやっつける。どちらにしろ、その前後につながる地の文、すなわちみずからが書いた文章と何らかの脈絡があるからこそ引用は行われる。まったく何の脈絡もない他人の文章をいきなり引用するのであれば、それは引用とは言えない。 話を単純化すれば、基本的に引用というのは自説を補強するためか、あるいは批判の対象として例を掲げるか、どちらかの場合に行われるものである。いずれにしろそれを引用する側の文章は、引用される文章に対して何らかのつながりを持っている。かかわり、といってもいいかもしれない。引用された文章に対して、それを褒めるとか、けなすとか、賛成するとか、反対するとか、生き生きとした心の動きが地の文のなかに潜んでいて、はじめて引用という営みが成りたつ。 まったく中立的な、いや、むしろ感情的に無機質な見地から引用を行うということなどはありえない。引用するということは、ひとつの意見の表明である。それはあたかも、詞華集をつくるということが、編纂者にとってみずからの文学観を表明することにあたり、一種の批評的行為であるというのと等しい。マラルメの詩は三十篇入れた。ランボーは三篇でやめておいた。そういう詞華集があれば、だれしもそれは象徴主義を重んじる立場からの見方であると考えるだろう。同じようにプルーストと源氏物語を好意的に引用している文章があれば、いくら無機質な口調をよそおってボルヘスを引いたところでその作者が時間という主題の面からボルヘスに一定の評価を下していることはあきらかになる。 引用は紹介ではない。引用は批評である。それゆえ他人の文章を、自分の文章との関係にかんがみて常に適切に引用できるような作家は、すでにして一流の批評家でもあるといえる。そしてこうした考えかたに立つとすれば、今の法王は批評家としてはかなりレベルが低い人物であるといわねばならない。 「イスラム教は好戦的な宗教だ」という古い書物の記述を引用する。それはむろん、法王の講義のなかにそうした内容を引用しなければならない必然性があったからだ(必然性がないのにもかかわらず引用したとすれば、法王はバカだということになる)。そしてそれがもし、この引用文を批判する文脈のなかで引用されていたとしたら、その真意がよくとどかなかったという意味で法王は講義者もしくは著作家として失格である。「こんなこと言うのはとんでもねえ野郎だ。頭がおかしい」と言足しておけば、たとえ「イスラム教は好戦的な宗教だ」という引用をしても問題にならない。それが問題になってしまったのは、地の文の部分での法王の態度が曖昧であったか、文章が下手くそであったかである。文章が下手くそであったとすれば知性と言語能力に問題がある。態度が曖昧であったとすれば、それは表面的にイスラムとの対話を言いつつも内心では「連中は敵だ」と思っている証拠である(そう取られても仕方がないだろう)。他方もし引用が、この引用文に納得し、同意する立場からなされていたものだとすれば、もはや言うべきことはない。あるいは法王は、批判でもなく、同意でもなく、単なる紹介という引用の方法があると思ったのかもしれないが、それはすでにして引用ですらないということは右に述べた。単なる紹介という引用があるとすれば、ちっとも感心しない詩を詞華集に載せるということもあっていいわけで、そうすればそれはやはり詞華集とも言えない。 どっちにしろ法王の態度、知性、言語能力はいずれかにおいて問題があり、さらに「あれはあくまで引用部分であって」という言いわけをしたことで、彼が文章の何たるかをまったく理解していない人物であることがわかった。もし「あれはあくまで引用部分であって」という言いわけが通るとすれば、あるいは彼が「貧しき者は幸いである」と神の御教えを説いたとしてもそれがじつは神を批判する文脈につながってゆくかもしれないという可能性をだれが否定できようか。 引用を甘く見るな。