【本】『死刑』 森達也 (ネタバレ注意!)
森さんの『死刑』をようやく読了した。死刑読む前に帯に書かれてあったコピー「人は人を殺せる。でも人は人を救いたいとも思う」の一文を読んで、「森さんらしいな」と思った感想そのままだった。もうひとつ頭の中に浮かんできたフレーズ。『世界はもっと豊かだし、人はもっとやさしい』森さんの過去の著作のタイトルだ。……………………………………………………………………………………………………死刑を巡るロードムービー。森さんはこの作品の執筆をスタートする際、どういう本になるのかについて、こうイメージしたという。その言葉どおり、森さんは確定死刑囚、元死刑囚、元刑務官、教誨師、元検察官、元裁判官、死刑廃止派の政治家、死刑廃止派の弁護士、死刑存置派ジャーナリストそして被害者遺族など、死刑廃止派、存置派の人びとを訪ね歩き、話を聞く。この日本において、死刑は必要なのか、必要ないのか。存置すべきなのか、廃止すべきなのか。森さんの中では明確な答えは出ていない。出ていないからこそ、散々訪ね歩き、話を聞いて、散々迷い、悩む。森さんは自らの迷いを隠さない。それどころか過剰に描く。なんでここまで描く?というほど自分の「今、ここ」の揺れ動く感情を詳細に描く。ここも森さんらしいと思うところ。存置派には存置派の言い分がある。廃止派には廃止派の言い分がある。森さんは死刑に関係する「当事者」からどちらの言い分も聞き、そして散々迷った結果、最後に結論を出す。「僕には死刑制度が必要な理由がどうしても見つからない」つまりは廃止派。その理由は実際に会って話してしまったから。高い確率で死刑になりそうな犯罪者と。多くの死刑存置派の人たちは人を殺したヤツは死刑にされて当然だと声高に叫ぶがそのほとんどは凶悪犯罪を犯した人のことを知らない。直接姿を見たことも、その声を聞いたこともない。当然だ。犯罪を犯していったん刑務所なり拘置所なりに入ってしまえば不可視の存在になるからだ。特に死刑囚の場合は。でも森さんは実際に会ってしまった。会って話をしてしまった。そのとき、高確率で死刑になりそうな人を目の前にしたとき、森さんはこう思った。「この人を救いたい」と。「この人を助けたい」と。それはセンチメンタリズムでも情緒でもなく、本能的なものだと森さんは語る。失われて当然の命などない。殺されて当然の人などいない。だから助けたい。救いたい。冤罪死刑囚はもちろん、絶対的な故殺犯であろうが、殺すことは嫌だ。多くを殺した人でも、やっぱり殺すこと嫌だ。反省した人でもしていない人でも殺すことは嫌だ。再犯を重ねる可能性がある人がいたとしても、それでも殺すことは嫌だ。生きているけど、もうすぐ命を奪われてしまうかもしれない人間を目の前にしたとき、そう思うのは水が高きから低きに流れ、ごはんを食べなければおなかが空くのと同じくらい当然のことだと言う。結局は「知る」か「知らない」か。やはりここでも森さんらしいと思うほかない。森さん自身も著作で書いているけど、こんな森さんをなんて幼稚で青臭いバカだと思う人はいるかもしれない。俺自身、死刑はあるべきだと思う。つまり存置派だ(※)。最大の理由はやっぱり身内が殺された側・被害者側に強く感情移入してしまうからだ。家族や友人を殺された遺族に直接会い、「加害者をこの手で殺してやりたい」「加害者と同じ空気を吸いたくない」「殺された人を返すことだけが償い」と血を吐く思いで語られる気の遠くなるような絶望や悲しみの声を聞きいている上で、殺人者と会い、この人を救いたいとはおそらく俺には思えないと思う。当事者でない以上、被害者の悲しみや絶望を共有なんてできないし、必要以上に共有するべきではないと森さんは言うが、どうしたって被害者の方に強く思いを馳せてしまう。そして自分の欲望を満たすために他人の命を奪った人間は生ぬるい絞首刑などではなく、その何倍もの苦しみを味わわせながら殺すべきだと思う。もちろん処刑は公開にして、希望があれば執行は遺族が行うことを許可してもいいと思う。こう思うのも、また俺の本能なのだ。この思いは森さんの『死刑』を読んだ後も変わらない。だけど、俺はそんな森さんが好きだ。だから結局、森さんに賛成か反対かではなく森さんの考え方が好きか嫌いかの問題なのだと思う。森さんは思想や考え方の違いを越えてそう思わせる何かをもっている。ここが森さんのすごいところだと思う。これも俺が実際に森さんを「知っている」からなんだろう。やはり「知る」ということは大切だ。そんな森さんに明日久々に会える。森さんの話を聞くのが楽しみだ。そして俺の思いを伝えることも。(※ただ1点だけ冤罪の多さだけが死刑制度存置の最大の疑問点だ。警察や検察のメンツを守るために、犯人をでっちあげ、やってもいない罪で処刑した警察官・検察官・裁判官は死刑にするという法律を作ってほしいと本気で思っている)