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テーマ:日々の出来事(3634)
カテゴリ:最近の出来事
理事になった覚えはないが 古代朝鮮王朝百済を中興した武寧王の生誕地は、日本書紀の記述から唐津市の加唐島と推定されていた。伝承に過ぎなかったこの話は、1970年の韓国公州市で武寧王陵の発掘で墓碑が出土したことで証明された。武寧王の生没年が日本書紀の記述と一致したのである。 この縁をもとにした両国市民の交流はすでに20年にもなろうとしている。日本側の民間団体「まつろ百済武寧王国際ネットワーク協議会」に自分が関わり始めて6年ぐらいになる。ずっと写真やビデオの撮影係ということで、加唐島での武寧王生誕祭や韓国で行われる大百済文化祭にも参加してきた。 「ネットワークの総会」 加唐島も人口減少が続き、武寧王生誕祭を行うことが難しくなっている。ネットワークのメンバーも出来るだけ協力を惜しまないが、毎年30名近く訪れる韓国からの訪問団や一般参加者を含めて200人にも及ぶ(加唐島の人口を越える)来島者への対応は年々難しくなっている。 昨年から唐津市内での歓迎会をやめた。そして、生誕祭当日に島民も参加して交流会をするように変更した。このような工夫をすることで、なんとか武寧王生誕をめぐる両国の親善友好を深めていきたいと考えている。 「昨年の加唐島での交流会の様子」 今一つの問題点は資金面の問題である。会員の会費は3,000円で、ほかに市からの助成金などもいただいているが、とても足りないのが現状である。したがって日本での交流会は会費制で行っているが、韓国側には予算が潤沢にあるようで、毎年9月末に華々しく行われる大百済文化祭での歓迎会や諸行事での熱烈歓迎ぶりには恐縮するばかりである。 旧百済の都は数回遷都しているが、武寧王が治めた時代の都は忠清南道の公州市にある。その後聖王の時代にはさらに西方の扶余郡に遷都する。その後、新羅の台頭で百済王朝は日本に亡命し復活を期することになる。しかしそれも、633年の白村江の戦いで日本の救援軍が中国と新羅の連合軍に大敗したことから失敗に終わった。 こうした滅びの歴史を持つ広州市や扶余郡の人々は、今でも百済の歴史に誇りを持っている。百済とヤマト政権の仏教や文字を介した交流の歴史を踏まえて、旧百済地域の人々が日本に対して大きな親善感情を持っておられることには感動を覚える。 今年から本人がしらぬ間に理事にされたようだ。他の役職での会議や研修会などを考えるととても多忙な日々を過ごすことになりそうだ。高齢化が進む中で、このような国際交流においても若い人の担い手が出てくることが期待される。
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Last updated
2018/05/01 04:40:55 PM
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