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Shige & Happy の 気まぐれ写真日記

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2019/10/19
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テーマ:日本の歴史(1071)

​武寧王と継体大王​​

 今年で2回目となる武寧王国際交流ネットワークの歴史講演会が近づいた。10月27日(日)の開催日が近づいてきた。昨年は基本的な部分を中心に話した。日本書紀の「百済の王子が筑紫の各羅島で生まれた」という記述が、1971年に実施された韓国公州市の宋山里古墳群での武寧王陵墓の発掘によって証明されたということが中心であった。

「日本書紀の記述」

(720年に成立した日本書紀が、240年も前の武寧王の誕生をほぼ正確に記述していた)

 今回は少し日本の政治状況と絡めて話すために、西暦507年に即位したといわれる継体大王に着目した。武寧王の即位が502年なので、二人の王はほぼ同時代の人物である。どちらも、低迷し混乱していた祖国を再興した人物と言われている点が共通している。

 継体大王(男大迹王=おほどのおおきみ)は応神天皇の五世の孫と言われる。彼は琵琶湖の西岸の近江の国高嶋郡三尾野(現在の滋賀県高島市)に生まれ、幼少期は越前国高向(現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられたという。越前は母親の出身地であった。

「継体大王の出自」

(五代の子孫というのは、一世代30年としても現代から明治維新にまでさかのぼる)

 日本書紀によると、第25代武烈天皇に後継ぎがなかったために、応神天皇の五世の子孫である継体大王が迎えられたという。応神天皇の五代も後の子孫である継体大王が、なぜ王位に就けたのかという点については謎に包まれている。

「継体大王の権力の背景にあったもの」

(日本海を通じた半島からの渡来文化や大阪湾や河川の水運の活用が考えられる)

 北陸王権による皇位簒奪とみる学者さえいるのである。日本書紀の成立は継体天皇即位の200年もあと(720年)のこととされる。万世一系の王統を正当化するために、応神天皇の子孫であると粉飾された可能性も否定できないという。もともと応神天皇の実在性自体が疑われているのであるが。

「継体大王の古墳」

(この夏実地検証した高槻市の今城塚古墳、巨大な象形埴輪が多く出土したことでも有名)

 宮内庁は古くから太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)を継体大王(天皇)の陵墓としている。しかし、大田茶臼山古墳は5世紀中ごろの築造とみられていて、継体大王の生没年よりも半世紀以上も古い。多くの学者が、太田茶臼山古墳の1.3㎞ほど東にある今城塚古墳を継体天皇の陵墓としている。墳丘の全長190m、外堀まで含めると350mに達する巨大な前方後円墳であり、一般の立ち入りができる唯一の皇族の陵墓である。

 一方、武寧王にも謎がある。各羅嶋(現在の佐賀県唐津市加唐島)で生まれたことは立証され、王位に就いたのが40歳で亡くなったのは62歳であることも、陵墓から出てきた墓誌石から判断してほぼ間違いない。問題は王位に就くまでの40年間のことである。

 日本書紀には「父王(蓋鹵王)は自らの妃を、日本に遣わす弟昆支に与えるとき「すでに身ごもっている。子が生まれたら母子とも送り返せ」と命じた」とある。果たして乳児の武寧王(嶋君と呼ばれたという)は、海峡を渡って百済に戻ったのか。

「武寧王関係系図」

(羽曳野市を中心に昆支に関する「昆支王ネットワーク」という団体もある)

 別の説では、昆支は嶋君を我が子として育てたとある。昆支は飛鳥戸神社(現在の大阪府羽曳野市飛鳥1023)に、百済系渡来人の祖として祀られている。ならば、嶋君もまた40歳になるまで日本で育ったのではないかという説もうなづける部分がある。

 面白いのは、和歌山県隅田(すだ)八幡神社所蔵の国宝「人物画像鏡」の銘文に、斯麻が男弟王(おほどおおきみ)の長寿を祝って送ったと読める部分があることだ。年代は503年と推定されるので、即位したばかりの嶋君=斯麻王(武寧王)が、即位前の継体大王に鏡を贈ったのではないかという説がここから生まれる。

 なかなか面白い説である。文献の記録より金石文は説得力がある。この説をクライマックスとして、今回の講演会の話を進めていきたいと思う。

※○○天皇というのは死後の諡(おくりな)であり、天皇という称号が使われるのは天武
 天皇(672年即位)以降と考えられるので、ここでは主として大王(だいおう・おおきみ)
 という表現を使っている。
 また、武寧王(ムリョンワン)も死後の諡(おくりな)であり、生前は斯摩王(しまおう)と
 呼ばれていた。

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Last updated  2019/12/09 08:28:36 PM
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