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テーマ:日本史(1738)
カテゴリ:武寧王をめぐる日韓交流
百済の滅亡と倭(日本)の動き
「まつろ・百済 武寧王国際ネットワーク」主催の歴史講演会。自分が講師を担当して3回目となる。一応これを区切りとする予定だったので、百済滅亡の経緯と倭の対応をテーマとした。初めて聞く方もおられると思うので、1回目と2回目の講演の分はYouTubeにアップしていた。今日の導入はその動画の上映から始めた。 その経緯は下のリンクをクリックすると動画で説明しています。 You Tube https://www.youtube.com/watch?v=urPZTArccQI&t=4s 武寧王誕生の経緯は「日本書紀」に書かれていた通りだということが証明されている。1971年に韓国忠清南道公州市で、埋葬者の名前(斯麻王)と亡くなった年(1523年)と享年が書かれた墓誌石が埋蔵された未盗掘墳が発見されたからだ。 「会長の挨拶」 (聴衆の中には、30名程の会員のほかに、一般の参加者もいた) 今回は、武寧王の死後の出来事をメインに話した。百済の都が熊津(公州市)から泗沘(扶余)に移されたこと、武寧王の子聖明王が倭に仏教を伝えたことなど…。 日本の教科書ではいきなり白村江の戦いになるのであるが、大伴金村による任那4県を百済の求めで割譲したことと、新羅の南下策で伽耶諸国が562年に滅亡するなどの経過もある。 いずれにしても白村江の戦いで大敗したことから百済再興の試みは失敗し、中大兄皇子は天智天皇になり近江京で即位した。九州の大野城や水城などは、唐と新羅の侵攻に備えて百済からの亡命者などの技術で完成させた。 「百済は常に高句麗の圧力と戦っていた」 (高句麗は現在の平壌が都で、北は満州(現在の中国東北部)まで支配していた) 近江京の位置は現在の滋賀県大津付近だが、新羅や唐の侵攻に備えて内陸部を選んで建設したと考えられる。戸籍がこのころつくられるのは班田収授が第一の目的ではなく、戦いに備えて徴兵を効果的に実施するためであった。 壬申の乱で大海人皇子が天武天皇として即位する。この天武天皇と次の持統天皇(天武天皇の妃)のころ、倭(日本)の中央集権化が進み律令の制度が確立されていく。 「百済滅亡後の日本」 (以前は沿岸部で外交をしていたが、百済滅亡後は内陸部に太宰府を設置した) 友好国百済の滅亡が、国家体制の確立につながっていく。国名もこのころから日本と自称するようになるし、天皇という称号の使用もこのころと考えられている。 今回の講演では上記のようなことを話した。おりしも、3年後の2003年は斯麻王(武寧王)の没年から1500年となる。日本の小さな離島で生まれた百済の王を偲ぶために、我々(まつろ百済武寧王国際ネットワーク)としては形に残るものを企画する予定である。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020/12/06 08:31:16 PM
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