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カテゴリ:月下の恋
僕は忘れていた、月が満ちればやがて欠けていく
ということを…。 彼女と一緒に暮らすようになってから、数ヶ月が 経った。強引な僕の誘いにようやくうなずいて くれた彼女の顔を僕は忘れないだろう。彼女と 過ごす毎日は戸惑うことも多かったが、それを 上回る幸せの連続だった。やはり、彼女は体質 からか日の光に弱く、朝は部屋にこもりっきり だったが、僕が家に帰る頃には必ず桜の樹の ところまで迎えに来てくれた。巷では凶悪犯罪が うわさされていたので彼女には家にいてほしかった が、唯一の楽しみである月光浴を奪うことはでき なかった。僕のエゴで彼女を縛り付けることなど とうてい僕にはできなかった。 それにしても不可解な事件が起きていた。今まで 事件という事件など聞いたことがないこの街で、 連続殺人が続いているという。この科学が進歩 した時代に逆行するかのような猟奇的な事件、 それは被害者が何か大型の動物に食い荒らされた ような無残な姿で発見されるというもの。これが ここ数ヶ月満月の夜に続くものだから、新聞など では狼男の仕業かと取り沙汰された。警察は 近くの動物園から大型の動物が逃げたかどうか 調べ、自警団を組んで大掛かりな捜索をしたが 何も痕跡を見つけることが出来ず、被害者は その数を増やしていった。今ではもう、満月の 夜には仕事帰りの人たちしか姿を見ることが 出来ず、誰もが足早に安全な場所を目指して 闇へと姿を消していった。 そんな人気のない、満月の夜でもまだ彼女は 月光浴を楽しみながら桜の樹のところまで僕を 迎えに来てくれた。さすがの僕も、いつまでも 彼女を満月の夜に一人でいさせる訳にはいかな かった。僕はどうなってもいいが、彼女だけは 傷付けるわけにはいかなかった。彼女に満月の 夜だけは僕を迎えに来るのを止めるようにお願い すると、やはり彼女は聞き入れてくれなかった。 日の光に怯える彼女が唯一自由になれるのは 夜の時間、だからこそその自由を一分一秒でも 長く謳歌しようと夜に出かけたくなる気持ちは わからないでもないが、彼女がいなくなること を何よりも恐れる僕は満月の日は仕事を休む ことで彼女と一緒に過ごすことに決めた。よく 死なばもろともという言葉があるが、そこまで の覚悟はなかったが僕の知らないところで彼女 がいなくなることが何よりも怖かった。だから、 満月の夜でも外に行きたいという彼女と一緒に いることで彼女の身を守ろうと考えた。彼女は 当然反対したが、これだけは譲れなかった。 次の満月の日、僕は仕事を休んだ。いつもの休日 のように日が沈んでから彼女と月光浴を楽しみに 外へ散歩したのだが、彼女の様子がそわそわして おかしかった。街は死んだようにひっそりと息を 潜めて静まりかえり、今晩という日が早く過ぎて ほしいような居心地の悪い夜だった。その雰囲気 を感じ取ったのか、彼女も居心地悪そうにして いていつも夜半過ぎまでする散歩も早々と切り 上げて、家に帰った。何事もなく今日という日を 無事過ごしてほっとした僕は彼女と一緒に床に ついたが、いつもより早い就寝に夜中に目を覚ます とそこにいるはずの彼女がいなかった。布団からは ぬくもりが消え、彼女の存在した証がなくなって いた。慌てて彼女を探そうとした僕は玄関から 誰か入ってきた物音がしたので泥棒かと思い、 寝たふりをして様子を探ろうとしたら彼女が 帰ってきた。彼女は僕が起きてないか探っている 気配を感じたが、起きてないと思ったのかやがて 床についた。僕は彼女がどこに行ったのか問い質す 機会を逸したままもう一度眠りについた。翌日知った ことだが、やはりこの夜も事件は起こっていた。 その次の満月の夜も僕は仕事を休んだ。日が沈んで から散歩をする彼女は前の満月の晩のように居心地 が悪そうだった。昨日まではいつもと変わらず月光 浴を楽しんでいたというのに、今晩も前の満月の晩 同様、彼女は早々に散歩を切り上げた。僕は彼女にも 今晩出歩くことの危険さが伝わったのかと思いつつも、 前の満月の晩はいつのまにか彼女は夜中に出かけて いっていたことを思い出し、帰って早々に床についた が寝たふりをして彼女の動向をうかがった。しばらく して、彼女が僕が寝たかどうか確認している気配が した。僕は身じろぎひとつせず寝たふりを続けている と、彼女が外に出て行く気配を感じた。やはり今晩も 外に出かけるみたいだが、何をしに行くのだろう。 一抹の不安を感じながらも玄関が閉まる音を聞くと 同時に、僕は彼女の後を追いかけることにした。 玄関を出て、いきなり彼女を見失った僕は途方に 暮れてしまったが、諦めずに街を走り回り彼女の姿 を探すことにした。何でこんな夜更けに外に出て 行ったのかわからないが、彼女が何者かに襲われる ことだけは耐えられなかった。あちこちを駆けずり まわり、公園にたどり着いたところで中の方から 物音がするのでそちらに足を向けると、草むらの 中で彼女が背中を向けて屈みこんでいた。ようやく 彼女を見つけた僕は安堵のため息とともに彼女に 近づこうとすると、そのとき異変を感じた。何かを 咀嚼する音がする。それはどう考えても彼女のいる 方からするもので、濃厚に立ち込める緑のにおいの 中に鉄のにおいがするのを感じた。愕然とする僕を よそに咀嚼を続けていた彼女だったが、ふと手に していたモノを放り出し、僕の気配を感じたのか ゆっくりとこちらに顔を向けた。 今まで数え切れないくらい夜空を見上げていて、 何度か月が紅に染まっていた瞬間を見たことがある。 はじめは僕の目の錯覚かと思い、何度か目を擦り ながら見直してもやはり月は紅に染まっていた。 普段は美しい月も、紅に染まっているときばかりは 何かしらうすら寒いものがこみ上げ、禍々しい感じ がした。そんな紅色に染まった月、振り返った彼女 の目はまさにそんな禍々しさを感じた月そのもの だった。そこには僕と暮らすことを了承したときの あの笑顔はどこにもなかった。頭が真っ白になった 僕はその場にたたずんでいたが、彼女は僕に気付く と身をひるがえしたかと思うと、僕を鷲掴みにし 地面にたたきつけた。猛禽の類は食事時に邪魔される ことを嫌うという、まさに彼女は僕の知っている 彼女ではなく、闇から跋扈してきた捕食者であった。 彼女の目には僕の姿は映っておらず、次なる獲物を 捕まえた歓びに打ち震えていた。僕は恐怖を感じたが、 これから起こるであろうことよりも彼女が彼女で なくなったことが何よりも恐ろしかった。僕の愛した 彼女はやはり幻だったのか。何度も彼女に呼びかけ を繰り返しても彼女の瞳は微塵も揺るがず、獲物の 味を確かめるべく大きく口を開けて今にも喰らい つこうとしていた。彼女に押さえつけられ身動きの 取れない僕はなすすべもなく、ゆっくりと近づいて くる今はもうあの優しい面影のなくなった彼女の顔を 見つめていると、ふとその瞳から一筋の涙が零れ落ちた ことに気付いた。 そうか、この涙が人としての彼女の、最後の姿なんだね… 露ではなく、涙だったのか。今まさに彼女の手によって 命の炎が消し去られようとしているそのとき、僕の頭を 過ぎったのはあの鬼から逃げる途上に男が読んだ伊勢物語 の一句だった。 「白玉かなにぞと人の問いし時 露と答えて消えなましものを」 そして僕は彼女の顔が間近に迫った瞬間、意識を手放した…。 「月下の恋」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.08.03 22:47:52
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