|
テーマ:大河ドラマ『龍馬伝』(491)
カテゴリ:テレビの話
今回の龍馬伝のみどころといえば、何と言っても牢の中で
交わされた容堂公と武市の会話に尽きると思います。 名君と謳われながらも、ただのアル中でしかないような 容堂公の秘められた苦悩が、この武市からの会話で明らか になったというのは、フィクションながら新解釈で面白い と思ってしまいました。 武市のことをほとほと腹の立つ男だと言ったのは、容堂公 の本心は心の底から天皇を敬い奉っていたのですが、先祖 代々徳川から土佐を賜ったがために御恩と奉公の関係で 結ばれた武士社会では徳川を裏切ることも出来ず、にも 関わらず身分的にはどうあれ思想的には何にも縛られる ことのない武市ら一派が攘夷の旗頭になったのが、自分に 出来ないことをやり通せたところに腹を立てたのではない でしょうか。 さらには容堂公が語った徳川に失望したというキーワード から、当時まだ鎖国が続いている日本の中で開国派の吉田 東洋を抜擢したのはせめてもの徳川への対抗であり、自分 では表立って動けない容堂公の代弁者を斬った武市らが 憎かったのであり、以来アルコールの量が増えたものと 思われます。 二人にとって悲劇だったのは、郷士である武市の生まれと その身分から対話をすることなくお互いが突き進んだ結果 として、この牢での対面となりようやくわかり合えたのは 武士としての行き方がいかに縛られたものであるかという のを克明に語っていました。 そして武市が自ら罪を認めたのは、容堂公が武市のことを 家来と認めたからであって、その二心なき赤心の証を立てる ために包み隠さず話したのは、とてもいい流れでした。 これまでの武市の行動を見ますと、上士に畜生にも劣る 扱いを受け続けてきた郷士の代表として、容堂公に認め られることでこれまでの郷士の苦難を晴らしたいと一所 懸命に励んできたように思います。 この容堂公の言葉によって念願がようやく叶ったために、 武士としてけじめをつけるために全てを主君である容堂公 に委ねた武市の姿は、自身の焦りから手段を選らばなすぎ ましたが最後の最後で武士としての生き方が出来たのでは ないでしょうか。 史実にも武市の切腹は三文字で行ったという記録が残され ており、いくら強靭な精神力を持ってしても十文字ですら 難しいところを行ったのは天晴れな最期とされており、 介錯を拒んで三文字を行ったのは武市として罪人ではなく 容堂公の家来として切腹を命じられたことに対する忠義の 姿が目に浮かぶようでした。 まぁ、あくまでもフィクションの話なのですが、先週の話 ではこの先にどう繋がるのかと心配でしたが、意外を通り 越して素晴らしい物語であったと思います。 容堂公が武市に長宗我部の人間ではなく山内家の人間で あったらどれだけ可愛がったかと言った言葉が、耳から 離れず余韻を残すものでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[テレビの話] カテゴリの最新記事
|