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テーマ:八重の桜(393)
カテゴリ:テレビの話
江戸幕府が開かれて260年余り、太平の世となり武士は
生き方ではなく身分になってしまったと思います。 今回のエピソードで描かれた池田屋事件、たいていは薩長 サイドか新選組サイドからの視点なのに対して会津からの 視点はなかなか画期的なものがありましたが、この一連の 騒動どころか黒船来航以来覚悟を持って事に臨む武士の姿 が少ないことに違和感を感じます。 おそらくそれが現実であったと思いますが、そもそもに してこの京が血で血を洗うようなことになったのは、外様 の暗躍に依るところが多いのですが、実際のところ自らの 手を汚したのは俗にいう人斬りと呼ばれたごく一握りの 人たちだけで、時代や政局を変えた黒幕と呼ばれる人たち はそれを指示するだけで自分は安全なところからの高みの 見物をしているだけだったのです。 そしてそれは会津藩にも言えることで、武士という身分は すべからず暗黙の中にしきたりがあり、それに則って動く ことこそ武士道なるもので、だからこそ実務では有益で あっても現場レベルの目前に迫った危機には他藩との兼ね 合いもありすぐさま対応出来ず、後手に回ることに。 それに比べて新選組は、常に最前線にいたため少しの遅れ が自らの命取りとならないようアンテナを張っていたため に古高俊太郎を捕らえれたのであり、さらには池田屋まで 辿りつけたのかと。 ドラマで池田屋への切り込みを待たなかったとありました が、実際は待たなかったのではなく待つ気はなかったのが ポイントであり、そもそもにしてそれまで毒を持って毒を 制するために集められたただの浪士でしかない新選組が名 を挙げる機会を常に探してたことを考えると、その覚悟の ほどがうかがえるというもの。 この池田屋への切り込みも、本来の新選組の御用改めで ある形式の4人で突撃したところからもそれは感じ取れる ものであり、そもそも武士という身分に胡坐をかいて勤め を果たしている者たちに比べて自ら志願して命を張って 京都を守ろうとした彼らの覚悟を見抜けなかったことこそ、 戦がいかなるものか口や頭でわかっているつもりでも人を 斬ったことがない者たちの集まりである会津藩どころか、 この時代すべての武士たちの甘さでもあったと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.03.13 22:36:36
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