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灰色の空のむこうには…

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2013.05.26
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テーマ:八重の桜(393)
カテゴリ:テレビの話
戦後GHQの監督下で日本国憲法が制定されたことにより、
日本人は法の下に平等というこれまでにない新たな価値観
で守られるのが当たり前となったため、それまでの日本人
の価値観というか死生観というのがどうにも理解出来ない
ものになっているように思います。


なので、こうして大河ドラマや歴史番組、さらには時代劇
といったものを見ていますと、ところどころ理解出来ない
部分があったりするのですが、誤解されるのを覚悟で今回
の容保公の大坂城脱出のことにあえて触れたいと思います。

僕は歴史の中では幕末が好きなので、これまでもいろいろ
な小説や物語を読んできましたが、それらの中でも一文で
触れられているのが慶喜に同行して会津公と桑名公が大坂
から江戸へと脱出したというものです。

どちらかというと血気盛んだったこれまでの僕としては、
自藩の兵を残して命惜しさのために大坂から逃げるという
のは言語道断と思ったりしてました。


この大河ドラマもそこのところはピックアップされつつも
あっさり描かれていまして、会津側から見た新たな解釈が
なされるものかと期待したのですがぶっちゃけスルーな
ところがあったので、この年になってそれを見た僕の個人
的な感想を。

この当時、汚名をいくらでも着ようが主君は御家を残す
ことこそが第一で、そのためには臣が犠牲になることは
いとわず、むしろ進んで命を投げ出すことが当たり前の
時代でした。

しかし、そうなったのは泰平の世である江戸時代になって
からで、それ以前の戦国時代はむしろ主君は家臣を守る
ために犠牲になるものでして、自らの命で臣を助けること
が当たり前で、その最たるものは豊臣秀吉にあっぱれと
言わしめた備中高松城における清水宗治の切腹こそ、責任
における腹切りの始まりとされております。


時代を経ることにより、その二点が醸造され武士道が形成
されることとなったのですが、それから鑑みるに過ちを
犯した主君のために家臣が切腹をすることで責任を取ると
いうのが通例となっていたことを考えると、江戸城へと
慶喜に同行した会津公と桑名公の立ち位置というのは自ず
から想像出来るものではないでしょうか。

大政奉還を行い京都で新政府が発足したところで、幕府と
しての中心はそれまでと変わらず江戸でして、そんな過去
の遺産ともいうべき幕府軍を駆逐するべく鳥羽伏見の戦い
は始まったのですが、慶喜にとってある意味アウェーとも
いえる京都で戦うよりもホームである江戸のほうが何かと
動きやすいものです。

しかし、そんな江戸幕府の権化たる慶喜を260年余りも
目の敵にしている薩長をはじめとする外様大名にとっては、
それまでの忍従を終わらせるためにも討つことこそ始まり
であり、そうした命の危険性を感じた慶喜は江戸へと戻る
ことに決めたのだと思います。


そこへ渡りに船とばかりに大坂に停泊していた開陽丸に
乗って江戸へと一行は戻ったのですが、僕に思うに無事に
江戸へと戻れたので取沙汰されないものの、この引き揚げ
は一歩間違えれば途上で薩長軍に取り押さえられる危険が
あるものであり、そうなったときの保険に何が必要だった
のかと思った次第です。

主君を生かすために家臣が犠牲になる…、その武士道の掟
たるものからこの江戸への引き揚げを考えますと、会津公
と桑名公が同行したのは京都守護職と京都所司代として
いざとなれば徳川宗家を支えた臣であるとの覚悟があった
ためだったのではないかと、ふと妄想しました。





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Last updated  2013.05.27 23:39:18
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