しあわせになろう その9
私は最近、東日本大震災を目の当たりにしたことをきっかけに自分自身の過去のこともふり返るようになっています。ちょうど村山先生の総まとめ的な本も5月に出版予定ということも関係すると思います。それで、このブログを始めた頃の古いものを読んでみました。するとこれを始めた当初の私は、自分を責めることは書いていても、相手を責めていないのがわかりました。性格的な部分はそれで構わないのですがこのブログを読んで、心の修正をするきっかけにしてもらうにはこんな偏ったお人好しの文面では意味がないので、ものすごく久しぶりなんですが、しあわせになろう その9 として過去の連続文の最後のまとめを残しておくことにします。 今だからわかるのですが「自分が悪かったんだ」と過度に自分を追い込んでいる心理状態であったとおもいます。これをほおっておくと死んでしまうのだと思います。私は村山先生のおかげでそうならずに済んだのですがあのままであれば本当の責任の所在を明らかにしないまま弱い立場の私が娘と共に死を選んでそのまま闇に葬られてしまっていたと思います。この現実の社会構造と同様で、強いものの主張が通り、弱いのもは言いくるめられて追い込まれ死へと追いやられている現実と同じだと思います。大震災の深刻さに掻き消えていますが日本人は毎年3万人の自殺者が出ているのです。大雑把に行って毎日100人死に続けているのです。私だって善悪の判断がつかないままだったらそのうちの一人だったと思います。 過去の記事には私が神様の力を授かるまでの過程があるのですが、夫だった人の問題点が明らかにされていません。本当は長年元夫のモラルハラスメントに苦しめられていました。そして当時(障害を負ってしまった娘の)出産を控えて引越し作業が重なりましたが、ほとんど平日に私が荷造りして肉体的に過度の負荷が掛かってしまい、その結果、娘はへその緒が首に5重に巻きついて、低体重出生児という異常出産になってしまいました。夫だった人は引越し前日まで協力的ではなく、収入が高くなってくると「誰のおかげで何不自由のない暮らしができているのか」と威圧感をかけてくる人でした。それに口答えはしませんでしたが息苦しい暮らしでした。私だって絵の仕事をして家計を助けていたのだからそんな言葉は不当な表現なのですが口の悪い人は言いたくなくともつい言ってしまうというのです。そして言いたいだけ言って、本気じゃないから許せというのです。結局、心を許せる優しい相手だとわかると自分のストレスの発散に利用するのです。利用して悪気はないと反省しないのです。私も毎日こうしたモラルハラスメントにさらされていて慢性化していて心の苦痛が出産に影響することはここまでとは思いませんでした。(もしうつ病の方で、ご自分が生まれるときにへその緒が絡まっていませんでしたか?お母様に伺ってみてください。出産の時の状態はその後の将来を示しています。お母さんが心理的に苦しんでいるとその子供も心理的に追い込まれやすいです。)心理的肉体的負担が出産に影響することは、家庭の医学書にもその関係性は証明されていました。だから異常な出産もその後のSIDSの娘の仮死状態も、母体への肉体的精神的な負担が原因であり、元夫の猛反省もあってしかるべきことでしたが、当時の私は自分の至らなさしか書くことができませんでした。誰かを責めるよりも自分自身が情けないきもちが大きくて事実を冷静に書き留めることはできなかったのだと思います。自分が悪いと過度に責める習慣は抜けきれずに心の病となっていたと思います。幸せになったつもりでこのブログを書き始めていましたが、それでも心の傷が深くて自分を責めることしかできなかったのだと思います。今だから当時の自分を振り返って、私が悪いのじゃなく周りが悪者でなんでも受け入れる私のせいにしてきていたと言い切れます。なぜなら裁判の提出書類で引越で無理をさせたことを元夫は自分で認めているからです。自分が悪いことを知りながら都合よく私に罪をなすりつけてきたのです。これは世間で今ならちょうど東京電力に関係する人々が政治家も含めて既得権益者たちが原発に関する利益を得ながらこの度の災害による損失を想定外として国営化にする流れをつくり庶民の血税に頼ることと非常に似ているのです。(唐突にきこえるかもしれないですが、自然災害は悪政への天罰であるという神様の視点で考えれば自然災害が偶然の産物でない限り、反省するべきことをしないまま所得の低い弱者に責任を負わせるのだから、立場の強いものが反省しないまま弱いものにその責任を負わせるという構図が同じなのです。)社会の問題のあり方が一家庭内にあるのです。 家族は誰か一人が頑張るのは家庭崩壊につながります。家の中のことは協力して心理的に支え合う気持ちがないと誰かが自分の気持ちを押し殺している状態はいつか破綻してしまうのです。元夫だった人は大手企業の課長で世間体はいいのですが家の中ではちがっていたのです。でも、世間の人は良いとこに勤めて家を買ってくれていいとか、お葬式も立派にできたし、お墓も買えて立派だとそういう部分を褒めるのです。実際のことの深層は理解しようとしないのです。そのために日頃重圧をかけられて気が変になり、死を選ぶことだってあるのにです。そして障害を負った娘に元夫がしたことは忘れません。それは離婚の裁判を私が申し立てその裁判中に分かった事実なのですが、証拠がなければどうにもなりません。裁判中に東京地検にも管轄の警察にも裁判書類を持って頼みに行きましたが、結局警察も自分たちの当時の判断ミスがあるのでそれ以上に進みませんでした。私は真実に気づいても、離婚の裁判だけを続けるしかありませんでした。殺されてしまっていたのです。事実を知り、気が狂いそうでした。それほど過酷な毎日でした。いま娘が亡くなって5年が過ぎてようやく本当のことをここに残してやれます。ここに残してやるしかできないのです。私は神様に守られて、私はギリギリのところで救われていることを感じます。結局神様のところに家族で通っても、あくまでも信仰は神と人との1対1のことですから元夫だった人は信じていなかったのです。人の心はどうすることもできません。そして2年かけて無事離婚が成立し、それから3年が過ぎようとしています。現在は末娘と2人暮らしです。私はようやく心身の健康を得て村山先生のお手伝いと、自分の仕事の両方をしています。神様と共に、長女の魂と共に、末娘と2人で、私のできることで少しづつでもみなさまのお役に立ってゆけたらなという思いで日々を過ごしています。