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中井久夫「アリアドネからの糸」(みすず書房) いじめといじめでないものとの間にははっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。 しかし、いじめを教える塾があるわけではない。いじめ側の手口を観察してしていると、家庭でのいじめ、たとえば配偶者同士、嫁姑、親と年長のきょうだいのいじめ、いじめあいから学んだものが実に多い。方法だけでなく、脅かす表情や殺し文句もである。そして言うを憚ることだが、一部教師の態度からも学んでいる。一部の家庭と学校とは懇切丁寧にいじめを教える学校である。 この本を手にしたのは10年以上も前のことですが、一読、ぼくが心に刻んだのは「いじめの政治学」の論利展開ではなく、その展開に先立つ「いじめの教育学」とでもいうべきこの一節でした。 教員をしている人間の多くは、ぼくもそうだったという苦い振り返りで考えると、子供たちの「いじめ」事件に、自分自身は何のかかわりも、ましてや、罪など全くないのに不運にも遭遇してしまったと思いたがるものです。ぼく自身も、実際そう思っていたように思います。 「いじめダメ」といったスローガンを張り出したり、集会で強面の生徒指導部長が、半分脅しのような訓戒を垂れたりして、「子ども特有の裏社会」を「教育的」に牽制したうえで、面談と称して密告を奨励し、子供たちのネット通信をのぞき込んで秘密情報の収集に余念がないのが、残念ながら、実態ではないでしょうか。。 結果、子供の社会を、「教育的に」と当人は思い込んでいるですが、実は「権力的に」取り締まっていることに対する疑問は生まれません。教育委員会の重点課題として「いじめ撲滅キャンペーン」が叫ばれるのですが、教員自身の意見が互いに交換されるはずの職員会議で、議題に対する賛否の挙手さえ、校長によってあらかじめ禁じられている矛盾は放置されています。いや、ここ10年、どんどん深刻化してきたといった方がいいかもしれません。 教員たちのふるまいは一般的な社会常識としても異様で、フロムの言う「自由からの逃走」そのものなのですが、自覚がないのが特徴です。そのうえで、学校内での事件が、新聞やテレビに出てしまうような事態を、ひたすら恐れる感覚を管理職と共有することで、「まじめに考えている」と思い込もうとしています。 そんな中で、果たして、たとえば、ぼく自身も、その職場で働きながら自身の責任性について考える契機を持つことができていたといえるのでしょうか。 そういう内省などとはとても言えない、ボンヤリな日々に読んだ中井久夫さんのエッセイは、いじめがどこからやってくるのか、教員がいじめの現場に遭遇するのは、決して偶然ではないということをさりげなく、遠慮がちに指摘していました。 ナチスやスターリンの全体主義社会はいじめの温床だったが、現代の学校社会はそれと相似形とでも言うべき様相を呈していないかという、厳しい問いかけが、その穏やかな言葉のなかにあると、ぼくは思いました。 その頃、ぼくの周りでも、若くて、素直な教員ほど、マニアル偏重主義におちいり、上から下への「やさしさ」を権力的に振り回す傾向がありました。もちろん、自分が「権力的」だと自覚することは出来ない不思議な穴ぼこに落ち込みます。なんとかする手はないのか、そんなふうにいら立っていたことを思い出します。 私は学校などの現場で、この論文を読んでほしいと思う。のみならず、これはまさに政治学として読まれるべきである。人に見えないような「隷従化」が進行している時代だから。 と書評は結ばれていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.03.27 23:48:57
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