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カテゴリ:読書案内「近・現代詩歌」
荒川洋治 「黙読の山」 (みすず書房)
詩人の荒川洋治のエッセイ集がみすず書房から、連作のように出ていて、なんとなく気になっていました。隣町の駅前に新しくできた図書館を利用するようになって、初めて出かけて棚を見ていると、ズラッと並んでいて、思わず「黙読の山」(みすず書房)を借りてきました。 勝手ないい草なのですけれど、この詩人の詩については、ぼくは、長いあいだ、関心がなかったのです。全く読んだことがないわけではないのですが、何の印象も残っていません。だからここでは触れようがないわけです。 実は、エッセイだって、 おっ、これは!と驚くような文章が書かれているわけではありません。どちらかというと、実直で、どんくさい文章だと思います。しかし、どこかに微妙で、 なるほど、あなたはそうか!とうならせるようなところがあって捨てがたいのです。 たとえば、この本を読みはじめるとすぐに「二人」というエッセイがあります。「オブローモフの生涯より」という1970年代のソビエト映画について書いているのですが、その結語はこんな感じです。 自分の意思をもって生きる、近代人の世界はここにはない。それとまったく反対の人生を生きる人の姿だ。アレクセーエフもまた、そのひとりである。でも彼らが時折浮かべる穏やかで、すなおな表情は、ぼくをつよくゆさぶる。そして、こんなことを想う。 文章はなにげないのですが、注意して読むと仮名の使い方や、文の切り方に独特なものがあります。何よりも、最後の言い切りが、譲らない荒川洋治を感じさせて、なかなかやるなあ、という雰囲気なのです。 続けて読んでいると「国語をめぐる12章」という、少し長めのエッセイに出会います。「国語」というから、学校の話ですね。で、これを読んで、ちょっと留飲を下げました。こんな調子です。 子供に読書をすすめる先生のなかには、相田みつをの詩は読むが、まともな本は読まないという人も実は多い。先生が読まないのに、子供たちに本を読めというのは無理がある。 一般に、学校の「先生」というのは本を読みません。何年も同僚で暮らしたからよく知っています。でも、「にんげんだもの」は保健室や図書室の掲示板にあふれています。 みんな、荒川がいう「すなおな自分」を見せるなんて、想像もできません。 だって、にんげんだもの。 じゃア、「国語」の時間はどうだろう。 短歌、俳句は、しっかり覚える。それだけでいいのではないかと思う。そこにあるその文字でおぼえる。からだのなかに文字を入れる。 荒川のいう「ことば」への信頼が、たとえば、高校の「国語」の時間に通用しているのでしょうか。「意味」へ、「知識」へ、と、草木もなびいて、しゃべったことの定着率を数値で確認することを授業と呼んでいないでしょうか。もう終わったこととはいえ、わが身を振り返っても、お寒い限りですね。 結局、いい「ことば」を頭のなか、からだのなかに入れることは自分の、自分に対する仕事なのです。まあ、そういうわけですが、せっかくだから、仕事の「やりかた」は若いうちに身につけるに越したことはありません。 「ことば」への信頼のない人の「読書のすすめ」はさみしいですからね。 というわけで、どんくさいなどと勝手なことをいいながら、しっかり、はまっている「荒川洋治」でしたが、できれば若い人に読んでほしい老人の繰り言でした。(S) ボタン押してね! にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.08.05 19:05:22
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