塚本邦雄「茂吉秀歌[赤光]百首」(講談社学術文庫)
昔、現代文の時間に、短歌や俳句の解釈や鑑賞を調べて発表するという形式で授業をやったことがある。狙いは、一首、一句でいいから興味をもって、自分で調べることで、教員の解説を待っていてはわからない、誰かに伝えたくなる実感に触れる人が出てくることだった。みんな何を調べたらいいのか、困ったようだ。ネットなんて便利なものはまだなかった。
国語の教員になって最初に感じた困惑は、教材である文学作品の何を生徒さんに伝えればいいのか、という当たり前といえば当たり前すぎる疑問だった。この疑問を味わってくれる人が一人でも出てくればいいな。そう思って計画した。
実際、教員になったボクは、自分の思い込みではない解説や解釈を探すことを仕事としてきたように思う。「読書好き」のように自分でも言い、何程か立派な趣味であるかのような態度で接したり、読んでいる量を誇らしげにいうこともあったと思うが、実は、仕事を人並みにやるための仕様がなしの作業の結果だった。
しかし、そうやってさがしていて見つけた本の中には、ボク自身の感受性を変えてしまうような迫力で迫ってくるものもあった。
今日紹介する歌人塚本邦雄による「茂吉秀歌[赤光]百首」(講談社学術文庫)はそんな本だった。斉藤茂吉の歌集「赤光」におさめられている《死にたまふ母》連作の中の有名な一首に対する塚本邦雄の解説を少し紹介する。
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
初句から結句まで三十一音これ歔欷(キョキ)(嘆き悲しむこと)の感がある。そしてこの悲調は、たとへるならチェロの音色であろうか。高音へと一途に啜り上げて行くその旋律が、ヴァイオリン・ソロの飽くまでも繊細澄明な趣ではなく、より太太と、底籠りつつ、読者の魂を揺すぶるところ、チェロさながらであり、それがいかにも茂吉らしい。
初句切、三句切、末句は三句と同じ感歎助詞、この切目切目はまさに嗚咽の噦(シャク)り上げる息遣ひそのままだ。終始手離しで母よ母よと呼び、しかも感傷の甘さを帯びないのは偉とするに足りよう。
凡手が真似たなら、鼻持ちならぬ過剰叙情に陥ったことだらう。その例は後々いやと言いたひくらゐ見られるし、皆単なる口説き文句に堕してゐる。茂吉の歌が成功したのは、様々の要因が有効に働いたからであり、単に悲歎を「ありのまま」吐き出した結果などではあるまい。
わが愛する母よ、われを愛したまひし母よ、などと、抽象的な、綺麗事に類する修辞を廃し、我を生み、乳を与へ、はぐくみたまふ母よと、ある意味では聖なる動物の勁さが生まれた。「垂乳根、足乳根(タラチネ)」から派生させた彼独特の造語であるが、よくこれが罷(マカ)り通って今日まで来たものだと、小首を傾げたくなるような強引な用法だ。
その強引さ、好い意味の舌足らずも亦、この作品に関する限り、却って魅力になつてゐる。死者が父で「父の実の父よ」などと歌っても、この歌の十分の一のおもしろみもあるまい。
たらちねのと、万葉写しの枕詞をそのまま用ゐず、語源を蘇らせ、具象性、現実性を帯びさせ、しかも、古調は決して棄てなかったところが作者の才の稀なることを証すだらう。人の子を生み、わが身に代へ、おのが身を削ってでも生かしめたその人は「死にたまひゆく」母であるところに、この作品内部の重く気高く圧倒的な主題がある。
斉藤茂吉の「赤光」所収の短歌などであれば、図書館の目録を探せば解説書は山のようにある。今時であればインターネットで検索すれば、ほとんど無数といってもいいほど見つかるだろう。
しかし、自分が納得がいって、これは人に伝えたいと思う解説に簡単に出会えるわけではないのは、茂吉の場合にかぎらない。だから、納得がいく解説に出会うと、正直うれしい。当たり前の話だが、仕事が国語の教員だからといって、一読ですらすらと解釈できたりするわけではないのだ。
そういう経験の中でも、この解説の「聖なる動物の勁さ」という塚本邦雄の解釈、この短歌への理解のような、ぼくにとって、自分自身の体験の根っこを揺さぶる言葉と出合ったりすると、他の解説など目に入らなくなる。広げるつもりが、これしかない、これこそがほんとうの読みだという思い込みをつくったりもするのだ。
塚本邦雄の解説は、文学が、人が生きていることとつながっている芸術であることを、ハッと思い出させてくれた。
「茂吉は、きっと、そうだったんだ。」
そんな感じ。
あんなあ、こんなこというてる人がおるねん!
インチキな引用でごまかす40数年間だったが、本人は、たった一つの短歌の解釈でも、探せば生きていることを揺さぶる出会いがありうることを期待して、あれこれ読み散らしてきたというわけだ。
(S)2009・12・24(2019・10・20改稿)
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