E・サイード「戦争とプロパガンダ」(みすず書房)
「今」になって振り返れば、この「読書案内」を配布した人たちがぼく自身にとって最後に出会った高校生だったことに気付くのですが、内容は単なるアジテーションに過ぎないかもしれませんね。しかし、生身の高校生に語り掛ける事が出来たあの頃は、そうすることが楽しかったのかもしれません。
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2014年1月。この案内を読んでくれるであろう高校1年生と出会って9か月がたちました。じつはぼくはここ数年間授業で出会う諸君に「読書案内」と名付けて、ぼく自身が読んでこれはいいなと思った本を紹介するプリントを配布してきました。ところが、根気が続かなくなってしまいました。理由はいろいろあるでしょうが、誰かが読んでくれているという楽しさを失ってしまったことが一番大きな理由だったような気がしています。。
高校にやって来る人は毎年新しくなります。相手をする教員は新しくなりません。新しくならない教員の悲しい宿命はマンネリズムから自由になれないことりません。です。自由になるためにぼくが知っている方法の一つが本を読むという事ですが、「読書案内」もぼくの中でマンネリ化してしまっていたのかもしれませんね。
幸いぼくはここ二年間、図書館で貸し出し、蔵書整理、PCデータベース化に取り組む仕事をさせてもらっています。あらゆる棚や、並んでいる本が古くてホコリまみれなのが哀しいのですが、公立高校としてはかなりな蔵書を相手にする仕事は教員生活最後の仕事としては悪くないと思っています。なにせ、ぼくは、本が好きです。そのうえ、自分自身をリフレッシュする本は必ずしも新しい本とは限りません。古い本だって、いちど読んだ記憶のある本だって、「なるほど」とか、「そうだったのか」といった新しい発見を連れてきてくれることはよくあることです。要するに、宝の山を相手に日がな一日ごそごそ片付け仕事をしているというわけです。何はともあれ、つまらぬ感傷に浸っていないで、元気を出して、もう一回やってみよう。それが今の気持ちです。
新しい読者諸君に「読書案内」について一言。ぼくは授業で出会う生徒諸君にこの案内を配布しています。できることなら、ゴミにしないで読んでほしいのですが、まあ、もしもこんなものはゴミだと思っても、教室ではなく、家に持って帰って捨ててほしいのです。名前は週刊と威張っていますが、そんなに迷惑はかけないと思います。そろそろ終わりが近づいているのですが、なんとか通算150号にたどり着きたいというのが目下のところの目標です。どうか、いやがらずにおつきあい願います。
さて、再出発はE・W・サイード「戦争とプロパガンダ」(みすず書房)から始めましょう。エドワード・ワディエ・サイードとは誰か。知っている人はいるのでしょうか。残念ながら、ぼくが今、授業で出会っている、2014年の高校一年生の中で、この名を知っている人は、おそらく、一人もいないだろうと思っています。
エルサレムで生まれたキリスト教徒のパレスチナ系アメリカ人。ハーバード大学、プリンストン大学で学び、あのオバマ大統領が卒業したコロンビア大学で教えた文学研究者であり、「オリエンタリズム」(平凡社ライブラリー)という西洋主体の歴史観を痛烈に批判した刺激的な仕事で有名な文学批評家。それに、ピアニスト、バレンボイムの友達です。
こう書けば、温厚な学究を思い浮かべるかもしれませんが、実は、2001・9・11以降、アフガン空爆、イラク進攻とつづいたJ・ブッシュ大統領による「テロ撲滅戦争」を最も痛烈に批判した行動する知識人なのです。
本書は9・11以降、「十字軍」を名乗り、「テロ撲滅」と叫び、自らの戦争を合理化していったアメリカ大統領をはじめ、あたかも正義の戦争がありえるかのように、こっそりとどこかで合意したらしいメジャーなメディア=アメリカをはじめ多く国のテレビ、新聞などのマスコミの宣伝=プロパガンダを痛烈に批判し続けた発言の記録です。
読書案内しているぼくは、実は、高校一年生諸君がこの本を読んでもよくわからないだろうという事を知っています。ぼく自身だってよくわかっているわけではありません。
しかし、それでも案内しようと思うのは、世界のあらゆるところで起きている様々な悲惨や不誠実を
「彼らの世界のこと」
として高みの見物で済ますのではなく、
「我々自身の世界で起きていること」
という視点で見ようとする意識のない学問は結局ニセモノじゃないかと考えていることと、「彼らの世界のこと」すら知らない諸君の世界は、単なる自己満足を充足させるだけの、狭く貧しい世界であるかもしれないと考えるからです。
諸君がいつでもポケットに忍ばせている携帯電話や、そこから繋がるネットの世界はあらゆる情報を提示しているように錯覚させていますが、自己満足と他者喪失の集団が「イイネ・イイネ」と連呼している不気味な誉め合いと人気投票の結果に満足を求める危険な全体主義の世界にすぎないかもしれないのです。読んでわからなくても、わかるために新たに読むことを始めること促す「誠実さ」と出会うことから読書は始まるのではないでしょうか。一冊もなかったサイードを図書館に並べようと思っています。で、まあ、乞う、ご一読というわけです。(S)
追記2020・02・08
〇文中の写真はサイードとバレンボイム。(ウキペディアに掲載されていたコピーです)
〇サイードの書籍を揃えて配架していたのを見た親しい同僚が、「誰か読みますかねえ?」と笑ったのが懐かしいですが、あれから5年以上たちますが、うっすらと埃を被ったサイードや丸山眞男は、今でも静かに座っているのでしょうね。
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