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カテゴリ:映画 香港・中国・台湾の監督
ビー・ガン「ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ」シネ・リーブル神戸
学生時代からの友人で映画の話をブログとかに書いている人が二人いて、最近ツイッターとかで挨拶するようになった、映画好きの若い人が一人いる。ぼくは彼らの映画評を信用しているので、2018年から始めた映画徘徊の、いわば案内人ですね。 その三人が、封切りとほぼ同時に話題にしたのがこの映画「ロングデイズ・ジャーニー」でした。監督はビー・ガン、中国の二十代の人です。 これはまいった。ど真ん中直球で好きな映画だ。まだ3月初めなのに、今年はこれと『象は静かに座っている』(フー・ボー監督)の2本で充分にお釣りが来る。監督はふたりとも中国人。いくら私がアジアン・ムービーを好きだとしても、この高打率はすごい。恐るべし、中国語映画。(ブログ「Bell Epoque」) バルトの「明るい部屋」、書きながら考えてる感じがめちゃくちゃ面白かった。写真論かと思いきや私的な愛の話。“そっくりであるというのは、愛にとって残酷な制度であり、しかもそれが、人を裏切る夢の定めなのである”で最近読んだ本が突き抜けた。 ネッ、見ないわけにはいきませんでしょ。というわけで勇躍シネ・リーブルへやって来たシマクマ君です。会場はアネックス・ホールです。500人くらい入るホールですが、観客は4人。これは映画のせいではありません。「コロナ騒ぎ」の結果ですね。これでは「濃厚接触」の可能性は、ほぼありませんが、やがて「無観客」上映とかになったりして、フフフ。笑い事ではありませんね。とはいいながら、シマクマ君は今週6本目の映画です。こういうの「反社会的」行動というのでしょうか。 で、仰向けになった男の顔をジーッと撮っているシーンから映画が始まりました。「画面が暗い」それが最初の印象でしたが、最初の印象が最後まで続きました。筋が読めません。眠くて困りました。 ボンヤリ映像に見入っていると島尾敏雄の「夢の中の日常」という題名が浮かんできました。続けて、亡くなった古井由吉の「辻」を読んだ時のことを思い出しました。「夢」が現実と出会う場所、あるいは現実から夢へ入ってゆく場所として「辻」があったのではなかったか。眠いのに、次から次へと目の前のシーンとは何の関係もないことへ「想念」が湧きあがってきます。本当に眠り込んでしまいそうです。 泣きながらリンゴを齧る少年の姿が、朦朧としかかった意識を少し持ち直してくれました。相変わらず画面は暗いままです。 3Dを暗示するあたりから、画面が滑るような感じが加わって悪酔いしそうです。暴れる馬のシーンも、もう一度リンゴを齧るシーンも、母親に銃を向けるのシーンも眠気を払拭するには至りませんでした。呪文は唱えられましたが、2Dだからでしょうか、家が廻った感じはわかりませんでした。 前半のどこかに入り口があったのを見損なっていたのでしょうか。戻ってくるも何も、あちら側に入っていくことができないまま、実に暗示的な歌詞の主題歌が流れて、映画は終わってしまいました。 「映画の映画」という方法を、「意識の意識」という、人間にとって、ある意味で当たり前の、多層的な知覚と意識の底を抉るために用いることで、登場人物と彼がさまよう場面とを迷宮化させようとしている映像として映画は作られていたということなのでしょうか。 偶然かもしれませんが、ツイッター君が持ち出しているロラン・バルトの「愛」の話にはこの映画を解くカギの一つがあるように思いました。彼は、実に、鋭いところを突き抜いているのではないでしょうか。 この映画には、若い監督の「才気」とでもいうものが満ちていて、面白い人には面白いのでしょう。しかし、カン違いかもしれませんが、その「才気」が駆使している様々な方法は、本来、描くはずであった「実在」の輪郭を薄暗がりの中の闇に消し去ってしまったのではないでしょうか。 チラシにありますが、この映画が中国やアメリカで「大衆的」支持されたという文言には、ただ驚くだけです。観ていないので何とも言えませんが、3Dという視覚のマジックが受けたのでしょうか。 何はともあれ、消える魔球で空振り三振というのが今回の徘徊でしたが、ボールどころか、ピッチャーがどこにいるのさえ見えないままトボトボベンチに引き上げる気分でした。 上に書いたことは、要するに負け惜しみとヘラズグチですね。トホホ・・・。 監督 ビー・ガン 追記2020・03・08 ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.12.22 21:54:38
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