吉本隆明「佃渡しで」(「吉本隆明代表詩選」(思潮社)」
「佃大橋から勝鬨橋を臨む」
「佃大橋」 東京の月島に住む友人が歩いて「佃大橋」を渡っています。ぼくには「佃大橋」とか「月島」とかの地理がよくわかっているわけではありません。フェイスブックに投稿された、晩春の隅田川の風景や、人も車もほとんどいない大橋の写真を見ていると東京で暮らす知人たちのことが思い浮かんできます。みんな、無事で元気にしているのでしょうか。
今日は2020年4月26日です。こんな感慨を持つ日がやってくることは、さすがに、予想できませんでした。
「佃大橋」という地名を見て、詩人の吉本隆明の死と彼が1960年代に書いた詩を思い出しました。
佃渡しで 吉本隆明
佃渡しで娘がいつた
〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまつて揺れてるのがみえるだろう
ずつと昔からそうだつた
〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉
水はくろくてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねつているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ掘割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてそれをとりに行つた
そして沼泥に足をふみこんで泳いだ
佃渡しで娘がいつた
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞つていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちよつとした砦のような感じで
夢のなかで掘割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあつたか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあつた
〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいつて
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かつた距離がちぢまつてみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いつさんに通りすぎる
友人が渡っている佃大橋が竣工したのが1964年8月だったそうです。「東京オリンピック」の年の夏ですね。
詩の題名になっている「佃の渡し」は佃大橋の竣工とともに廃止されたそうです。詩のなかに「河蒸気」の姿が描かれているところ見れば、渡し船がまだ運行していた世界が描写されているようですが、詩人の目の前には1961年に着工され、工事中の大きな橋が見えているようです。
一人の少年の思い出の世界は、今、大きく変貌しようとしているようです。この詩において、それは、「すべての距離がちいさく見え」始めた詩人自身の変貌であり、少年たちが「悲しみ」を流すためにあった「橋」の働きが失われていく社会の変化でもあったのではないでしょうか。
そこから60年の歳月がたち、詩人がなくなっ2012年からでも、10年近くの時が流れました。
身を乗り出して「永代橋」の写真を撮って送ってくれている友人は、橋のたもとに、今でも
60年前の「佃の渡し」の痕跡
を見つけることができるのでしょうか。
追記2020・04・27
早速、友人から「船着き場だった場所」にモニュメントとがあるという返事が来ました。山の中の田舎で育ったぼくには、吉本隆明のこの詩の「水辺」の光景は魅力に満ちていました。
彼には「佃んベえ」という、「ベーゴマ」についてのエッセイもありますが、「ベーゴマ」遊びを知らない田舎者には、異国の郷愁の味わいの文章でした。
追記2024・05・30
お腹にアナを三つ空けて、何も判らないうちにはれ上がった虫垂を、おへそのアナから取り出すという手術が終わった夜、そうはいってもこわばったお腹を抱えて、眠れるわけでもないし、手近にあったスマホをいじりながら昔の投稿記事を読んでいて、偶然見つけた吉本隆明の詩に思いがけなく夢中になるという、ここの所忘れていた体験をしました。
十代の終わりから繰り返し繰り返し読んだ詩人ですか、どうも、もう一度読み直す時期がやって来たようです。
読み直した詩を、少しづつ「読書案内」していこうかなと思いました。お楽しみに(笑)。
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