|
カテゴリ:読書案内「現代の作家」
古川真人「背高泡立草」(集英社)
2020年の冬の第162回芥川賞受賞作、古川真人「背高泡立草」を読みました。作家は31歳だそうです。若い人ですが、この所繰り返しノミネートされていた人だそうです。 九州と朝鮮半島との間、玄界灘というのですね。その長崎県よりの「島」に草刈りに行く話でした。場所が魅力的なのですが、風景の描写があまりされなかったのがザンネンですね。松田正隆という劇作家が「月の岬」という戯曲で読売演劇賞だったかを取ったことがありましたが、あれも長崎の「島」が舞台だったことを思い出しました。 作品は、全部で9章で出来ています。 第1章は「母」が養女として成長した吉川家があり、今では母の実母だけが暮らしている「島」があるのですが、そこに残されている吉川家の納屋の周りの草刈りに駆り出された娘が視点人物として語りはじめます。 娘と母、伯父、伯母、従妹の五人が、順次出会って行き、フェリーに乗り込み、島に到着するシーンです。 出会いの中で過去の吉川家の親類・縁者が話題に出てきます。吉川家以外では伯母の夫婦喧嘩の話はありますが、母の夫、つまり、娘の父の話は出てきません。 そこから奇数の章は「草刈り」の一日が描かれています。最終章ではその日「島」で娘が撮ってきた携帯電話の写真を、母と娘で見るのですが、そこに「背高泡立草」が映っているというわけです。 第二章以下、偶数の章では、集まった、祖母を入れて6人の「会話」に登場した人物や、通りすがりの光景に「島」の「記憶」に発火点があったかのように、「島」をめぐる「過去」のエピソードが描かれます。 「満州への夢に溺れる島の男」、「朝鮮への帰国途上の漂流民」、「蝦夷地を旅する鯨獲り」、「カヌーで家を出る少年」、それぞれ、そこそこ面白い話なのですが、まだ物語になりきらない「種」のような、いうならば「挿話」です。 映像でいえば「カット・イン」というのでしょうね。今ではない、別の時間の出来事の挿入です。現実の「場所」と今ここにいる「人間たち」に、「時間」=「歴史」の厚みを与えようというのが作家のたくらみでしょうか。 「読書案内」しながらいうのもなんですが、物足りませんでしたね。いろんなレビューを覗いてみると酷評されているものが多いですね。挿入されているエピソードの章が意味不明というのが一般評のようです。 しかし、ぼくは、逆だと思いました。主たる登場人物の「顔」が見えてこないところが残念だったのです。 エピソードの人物は短いなりに印象に残るのです。敗戦後の日本から、海峡を越えて祖国に逃げ帰る青年と、船の沈没で親を失った子供のやり取りも、家を出る決意をしてカヌーで海を進む少年の姿も悪くありませんでした。 しかし、今日、「島」にやって来た、今、ここで生きているはずの母と娘の姿がイメージを結ばないのです。 ほんの一行、家で酒を飲んでいる「夫」を思い浮かべる「妻」の「くったく」の表現はあるのですが、そこから今日の雑草の話し移ってしまいました。 結局、今日刈り取られた数多の雑草の中で、何故、「背高泡立草」が作品の「題」として取り上げられたのか、ぼくにはわからないまま終わってしまいました。 刈り取られた「背高泡立草」が放置された「母の実家」の荒廃を象徴するだけでは、小説としては、やはり、「あんまり・・・」なのではないでしょうか?会話もエピソードも悪くないと思うのですが。 ボタン押してね! ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.12.02 17:47:25
コメント(0) | コメントを書く
[読書案内「現代の作家」] カテゴリの最新記事
|