「100days100bookcovers no24」(24日目)
藤原伊織 『ダックスフントのワープ』(集英社/文春文庫) 前回、SODEOKAさんが取り上げられたのが町田康の『猫にかまけて』(and 同じ著者の猫本数冊)ということで、まずは深く考えず、「猫」関連の本ってあったっけ?と思って本棚を見ると何冊か見つかる。
今後のために(笑)具体的な書名は伏せるが、コメント欄で名前が挙がっていた写真家の武田花のエッセイ(写真込だがちょっと見たところ猫はあまり出てこなかった)や同じ写真家の猫がテーマの写真集(これは未確認だが)もあったはず。でも、再度「猫」というののもちょっとどうなのかと思う。
じゃ、
「犬」
はどうか。
そこで町田康がずっと若い頃(Wikiには19歳とある)、町田町蔵という名前で「INU」というパンクバンドを率いていたのを思い出す。おお、「犬」だ !。
ちなみに唯一のアルバムは81年リリースの『メシ喰うな !』。正しくパンクなタイトルである。
YouTubeにアルバム全編がUPされていたのでいくらか聴いてみたが、さすがに、頭の悪そうなただの初期衝動発散パンクではなく、もっと屈折感のある音になっていた。
81年を反映している。町田町蔵のヴォーカルは、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンをかなり意識している。いや、P.I.L.のジョン・ライドンというべきか。
では、「犬」関連はということで、いくつか思いついて少し迷ったのだが、『ダックスフントのワープ』藤原伊織 集英社/文春文庫を今回は取り上げることに。
最初に読んだのが、87年に集英社からすばる文学賞受賞作として出た単行本。これがデビュー作。
ただ、今回Wikiを読んで初めてわかったのだが、すでに1977年に本名の「藤原利一」名義の作品で野生時代新人文学賞佳作に選ばれている。しかしこのときは本にはなっていないようだ。
この写真の集英社からの単行本には、表題作以外に『ネズミ焼きの贈りもの』が併せて収められる。
その後、集英社文庫になり、さらにどういう経緯か2000年には、最初の写真の文春文庫になる。その際に、単行本刊行以降に雑誌に発表された2編も追加収録された。さらに文庫版の初出記載ページには「各作品とも、加筆、修正しました」とある。
個人的なこと言うと、単行本を読んだ当時から気に入っていて、文春文庫に追加で収められた『ノエル』が雑誌に発表された際に、雑誌を買って読んだ記憶がある。
ただ、藤原伊織という作家の名前を覚えている方の多くは、95年に江戸川乱歩賞を受賞、翌年には直木賞まで獲ってしまった『テロリストのパラソル』からではないかと思う。文体もすっかり変わり、いわゆる「ハードボイルド」系の再デビュー小説で、出た当時は結構、驚いた。
その路線のも何冊か読んだ。悪くなかった。が、最初に読んだときの印象は、この『ダックスフントのワープ』のほうがずっと強い。
今回もいつものようにいろいろと忘れているので文庫版の表題作を再読してみたのだが、いや結構すごい。
簡単に、作品の概略を紹介する。
「僕」は心理学専攻の20歳の学生で、いくらか自閉的な性格の10歳の女の子マリの家庭教師をしている。ただし学科は教えない。「僕」がマリにオリジナルの物語を語り、マリとコミュニケーションをとる。つまり、それがある種の「カウンセリング」になるというわけだ。いや、少なくともマリの父親はそう解釈している。
小説は、したがって二重構造になっている。
「ダックスフント」はその小説内物語の主人公。もちろんあの、犬のダックスフントだ。
ちなみにWikiによると、「ダックスフント」はドイツ語、それを英語読みすると「ダックスフンド」。ドイツ語で「ダックス」は「アナグマ」で、「フント」は「犬」。つまり「ダックスフント」は「アナグマ犬」。アナグマ狩猟のために人間によって「改良」された。この話の一部は小説中にも出てくる。
物語はここには詳細には触れないが、『星の王子さま』や『不思議の国のアリス』、スフィンクスの逸話等をいくらか借用した体裁の寓話だから、教訓的、あるいは倫理的といえば言えなくもない。ただそう簡単な話でもない。ただ、この物語は、正確に言えばこの小説内で完結しない。
そしてもうひとつ、「僕」やマリ、マリの家族(父親と、マリが「新しいママ」と呼ぶ、父親の20歳の妻)、さらに重要な登場人物としてマリの学校の担任の女性教師が絡む小説内現実の物語がある。
ちなみにマリの担任の教師は彼女がヴォーカルを担当する「ダックスフント」なるバンドを組んでいて、そのライブを「僕」が見るシーンがあるのだが、そこで演奏される曲は『糞ぶくろ』。
このタイトルも正しくパンクである。尤も、バンドに編成は、ドラム、ベース、キーボードまではノーマルだが、リード、フルート、バンドネオンがそこに加わるとなるとちょっと妙な塩梅になりそうだ。
そういや「ばちかぶり」とか「ハナタラシ」とか、それらしいパンクバンドがあったのを思い出す。音は聴いたことないけど。
文体的には、村上春樹フォロワーのそれである。初めのほうは、特にそれっぽい印象が強い。随所に出てくる比喩も、かなり意識しているように思える。研究していたんじゃないかと思わせるほど。
たとえば高名な建築家であるマリの父親と「僕」が話す場面。
「十分ほど、彼と話した。彼がモーツァルトを聴いた印象を語る。僕がピカソをみて意見を述べる。あるいは彼が野球のボールを投げ、僕がサッカーボールを蹴る。そういうたぐいの会話だ。そういうたぐいの会話もある。」
しかし、2つの物語が終盤に向かうに連れ、文体にそうした「遊び」の部分は薄れ(あるいは読者の私が感じなくなり)、ある種の「熱」を帯び始める。
「僕」は、時に「客観性」と呼ばれる、ある種の「虚無」を抱えているが、それは「僕」に限らない。マリの「新しいママ」も、マリの担任の女教師も別種の「虚無」を抱えている。
いくつかやや不自然なところを感じないではなかったが、小説を読み終えた後ではさして気にはならなかった。
小説内現実のほうは、何とも言えない結末を迎える。結果だけを見るなら、悲劇としか言いようがない。まったく忘れてしまっていた私は驚いた。もしかしたら実際に息を呑んだかもしれない。
「現実」は常に過酷で「邪悪の意志の地獄の砂漠」となり、我々を打ちのめす。そこで我々は命を失うこともある。それでも、と思う。この照応する2つの物語には「希望」の予兆くらいは刻み込まれている。間違いなく。
DEGUTIさん、次回、よろしくお願いします。(2020・06・27 T・KOBAYASI)
追記2024・05・11
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