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カテゴリ:読書案内「現代の作家」
「100days100bookcovers no34」(34日目)
吉本ばなな『キッチン』福武書店 遅くなりました。仕事の都合でなかなか時間が取れませんでした。申し訳ないです。 SODEOKAさんの採り上げた吉田秋生の『BANANA FISH』のタイトルは、記事でも触れられていたように、サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』(野崎孝訳 新潮文庫)の冒頭に収められた『バナナフィッシュにうってつけの日』("A Perfect Day for Bananafish")に由来する。 次を考えるに当たって、とりあえずその短編を読んでみた。おもしろい。非常に洗練された短編に思える。ラストが強烈だ。 主人公はシーモア・グラース。サリンジャーが「長大な連作の完成に没頭すると言明した」(野崎孝の「あとがき」から)いわゆる「グラース・サーガ」(グラース家の誰かを主人公とする連作物語)の登場人物でもある。 他に思いつかなければこのまま『ナイン・ストーリーズ』でもいいかと思っていたのだが、つらつら考えているうちに思い当たった。 吉本ばなな『キッチン』福武書店 要は単純な話で、 「ばなな」つながりである。 実は他にも、吉田秋生の「バナナフィッシュ」が麻薬の名前であることから、「薬」に関連する某学者の著作何冊かも候補として考えていて、それなりに迷いもしたのだが、今回はこちらにする。 1988年出版。作家のデビュー作。表題作以外に『満月-キッチン2』・『ムーンライト・シャドウ』所収。 表題作は、第六回「海燕」新人文学賞受賞作。 『ムーンライト・シャドウ』は、日大芸術学部1986年度卒業制作作品で、芸術学部長賞受賞、さらに第16回泉鏡花賞受賞。 『満月-キッチン2』は、サブタイトルが示すように『キッチン』の続編。 きっかけは忘却の彼方だが、ある時期に何冊かまとめて読んだ彼女の小説の中で、たぶん最初に読んだのがこれだった。 『キッチン』は、森田芳光監督、川原亜矢子主演で映画化されて、私も劇場で鑑賞した記憶がある。 今回、これを選んだのは、ここの収められた『ムーンライト・シャドウ』に強い印象が残っていたからだ。 当時、初めてこの小説を読んで、ぼろぼろ涙が出てきたのである。話の細部は忘れてもそういうことは覚えている。 年齢的には31歳。まだ涙腺が緩む年齢ではない。今回はどうなるかという自分に対する興味もあった。 今回、記事を書くにあたって、3編とも再読してみた。 まず読書中に率直に思ったのは「下手だな」ということ。身も蓋もない言い方だが、そう思った。 何だか「小説」を読んでいる気がしないのだ。SNSやブログの記事に近い印象。言葉も平板に感じる。 たとえば、「孤独」「淋しい」「なつかしい」「悲しい」というストレートな感情表現も、小説家がそれをそのまま表現してどないするねんと突っ込みたくなることも。 あるいは、「2人がとても大好きだった。」(『満月-キッチン2』)というような妙なフレーズが出てきたときも。まぁ気分としてはわかるのだけれど。 単行本に付いていた帯に、「海燕」新人文学賞選評として、中村真一郎と富岡多恵子のコメントが出ている。 中村の評は 「旧世代の人間には想像もつかないような感覚と思考を、伝統的文学教養をまったく無視して、奔放に描いた作品で、旧来の観念からして、文学の枠にはまろうがはまるまいが勝手にしろ、という無邪気な開き直りに、新しい文学を感じた。」 とどう考えてもけなしている、あるいは私の理解外だから好きにしろと言っているとしか思えない選評だし、富岡のコメントは中村ほどではないにしろ、 「その文章のすすみ具合が、昔のひとから見れば頼りなげにうつるとしたら、それは吉本さんにとっての文学が昔のひとのレシピでは料理できなかったからであろう」 と「新世代」の文学だから、「旧世代」にはわからん、と、やんわりというよりはっきり言っている。 3つの作品とも、肉親や身近な人の「死」が物語のきっかけや中心に据えられている設定といい、文体や言葉遣いといいこれだけ、若者的にカジュアルでわかりやすければ「受ける」かも、といういくぶん意地の悪いことも考えたかもしれない。 しかし、実際に『キッチン』、『満月-キッチン2』をそれぞれ読み終えたときに感じたことは、先述したような「感想」とはいくぶん異なっていた。 悪くないかも、と思っていた。 下手だとか稚拙だとかいう感想は変わらなかったし、これが新人賞に値する作品かどうかはよくわからなかったが、それでも、だから読めないとは思わなかった。 意図的に戦略的にこういう文体を採用したのかどうかは本当のところはむろんわからない。が、読んでいてあまりそういう風には感じなかったのだ。素直に書きたいことを書きたいように書いた、というのに近いのではないか。 登場人物は二十歳くらいで、したがって子供っぽいふるまいや感情も描かれ、面倒くさいと思うこともなくはなかったが、主人公の一人称語りで語られる心情吐露も、良くも悪くも「まっすぐ」で真剣で、したがって「不器用」な人間しか出てこない。嘘がない。 また、ところどころに出てくる清水のような一節が、文字を最後まで追うことにつなぎとめてくれたということもあるかもしれない。 「しかし私は台所を信じた。それに、似ていないこの親子には共通点があった。笑った顔が神仏みたいに輝くのだ。私は、そこがとてもいいと思っていたのだ。」 「いつか必ず、だれもが時の闇の中へちりぢりになって消えていってしまう。そのことを体にしみこませた目をして歩いている。」 「闇の中、切り立った崖っぷちをじりじり歩き、国道に出てほっと息をつく。もうたくさんだと思いながら見上げる月明かりの、心にしみいるような美しさを、私は知っている。」 「冬のつんと澄んだ青空の下で、やり切れない。私までどうしていいかわからなくなる。空が青い、青い。枯れた木々のシルエットが濃く切り抜かれて、冷たい風が吹きわたってゆく。」 こういう、散文というより、詩の一節みたいな箇所がもしかしたら作家の「書く意志」に直接結びついているのではないか。 作家は「あとがき」で 「私は昔からたったひとつのことを言いたくて小説を書き、そのことをもう言いたくなくなるまでは何が何でも書き続けたい。この本は、そのしつこい歴史の基本形です。」 と書く。 「たったひとつのこと」はここでは、身近な人の「死」によってもたらされる苦しみとそれにどう耐えるか、である。逃げようがない状況と言っていいかもしれない。どうして作家はデビュー作にこうした「苦しい」テーマを選んだのだろうか。 その苦しみが最も直截描かれたのが最後に収められたのは『ムーンライト・シャドウ』である。 タイトルは、マイク・オールドフィールドというミュージシャン/コンポーザーの楽曲に由来する。その詞を含めた楽曲が小説の「原案」だと「あとがき」で述べられている。 簡単に話の設定と展開を記す。 さつきは高校2年のときに知り合った等と4年つきあうが、交通事故で彼を失う。 等にはちょっと変わった柊という弟がいた。弟にはゆみこというガールフレンドがいた。柊のところに遊びにきていたゆみこを等が車で駅まで送る途中で二人は事故に遭った。 即死だった。 柊はゆみこが死んでから、私服の高校にゆみこの形見のセーラー服を着て登校している(ゆみこは小柄だそうだからサイズが合わないんじゃないかと思うが)。双方の親はスカートをはく彼を止めたが、 「気持ちがしゃんとする」 と言って、彼はきかなかった。 さつきは苦しみを何とかしようと夜明けにジョギングを始める。 ジョギングの折返し点の川にかかった橋で、あるとき、うららという女性に出会う。彼女は、もうすぐ100年に一度の見ものがあるという。 うららから連絡があり、 「あさっての早朝に、あの橋で何かが見えるかもしれない」 という。 その当日、さつきはうららとともに橋にいた。それから、彼に出会う。 同じころ、柊は自宅で彼女に出会っていたことがわかる。 等。ということで30年経っても、やはり涙が出てしまった。 こういう文体の、こういう物語ゆえに届く感情や情緒がきっとあるのだ。 あるいは死による別れは、いつもそうした感情をもたらすのだろうか。 では、DEGUTIさん、次回、お願いします。(T・KOBAYASI・2020・08・06) 追記2024・02・02 ボタン押してね! ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.02.13 22:56:40
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