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ゴジラ老人シマクマ君の日々

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2021.01.10
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​​山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)(その2)
​​ 「穂村弘の短歌の秘密」と副題された「世界中が夕焼け」(新潮社)を読み継いでいます。前回書きましたが、高橋源一郎の小説「日本文学盛衰史」に引用された短歌について「案内」したくて読んでいるのですが、​
​超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日 曇り​
​ という、小説中で石川啄木が詠んだ歌の、ひとつ前のこの歌で、手がとまりました。
​​​ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵のなかの火星探検​
               「火星探検」(「短歌」2006年1月号)
​ ​山田航の鑑賞文の中には、この歌に加えて、下の2首の引用があります。​
母の顔を囲んだアイスクリークリームらが天使の変わる炎なかで

髪の毛をととのえながら歩きだす朱肉のような地面の上を
​ ​​「母」の死をめぐる、穂村弘による一連の挽歌の中の歌ですね。で、山田航は総括的にこうまとめています。​​
「火星」だけではなく、「炎」や「朱肉」といった赤のイメージを持つ言葉が氾濫する。これは火葬のイメージにつなげているのである。現実感を失ったふわふわした感覚の喩として、「朱肉のような地面」というのは素晴らしいリアリティを持っている。穂村の計算されつくした技巧が冴え、一連の世界全体が確実に炎のイメージへと向かっていく。
 幼少時の「わたくし」が炬燵の中の「火星探検」というごっこ遊びに興じられたのは母という偉大なる庇護者の存在があったからだろう。母の存在が「ゆめ」となって焼失した現実のまでふらふらと歩き続ける穂村は、やがて自分が育ってきた昭和という時代を清算するべくねじくれたノスタルジーを追求するようになる。それは失われた自分自身を探し求める旅なのである。(山田)

​ 歌人である山田航の「感性」というのでしょうか、おそらく「炬燵」あたりのからの連想でしょうか、「育ってきた昭和」という捉え方は、ちょっと意表をついていますね。​「えッ、そこで昭和?」という感じです。
​ そのあたりについて穂村弘が応答しています。​
 昔の炬燵ってなんか出っ張りがあって、網々の、その中が赤くて、みんなが膝をぶつけて、その網がゆがんだりなんかしているようなものでしたね。
(中略)
で、子供は必ず一度はその炬燵の中にもぐってみたりする。それもそういう昭和的な感じがもちろん強いわけですね。だから、お母さんだ台所で夕餉のしたくをしている時に、僕は炬燵の中で火星探検という体感です。山田さんが書いているとおりです。(穂村)
​ で、​山田航​の引用の2首の歌についてはこうです。少し長くなりますが、「読む人」と「作る人」のギャップが、ちょっと面白いので引用します。
​​ 「母の顔を囲んだアイスクリーム」というのは、これは比喩だと読まれることがあるのですが、実はそのまんまの実景。
 うちの母は糖尿病で亡くなったんですけど、甘いものがとっても好きで、もうこれで好きなだけ食べられるよ、というので、お棺の中にアイスクリームを入れたんですよね、本物の。
 それが何ていうか印象的で、アイスクリームが燃えるっていう感じに何かこう、ショックみたいなものを覚えたんです。母親と一緒にアイスクリームも燃えるというイメージをそのまま書いたんだけど、わりとそれは読み手には伝わらなかったみたいで、これは何かのメタファーだという読まれ方が多いですね。​(穂村)
​ ​​二つ目の「朱肉のような地面」については山田航の指摘した「色」よりも、どちらかというと「感触」についてこだわったことを、こんなふうに語っています。​​
 ​母親が死んだ後、地面がふわふわするような現実感のない感じ。社会的には葬式とかやんなきゃいけないから、喪服着て髪を整えてみたいなことがあるわけだけど、歩くと道がなんかふわふわするんですよね。
 自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが昨日としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。
 でも母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持っているところがあって、何人人を殺しても「〇〇ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。(穂村)​
​ と、まあ、なるほどというか、そうなんですかというか、作った人にしかわからない実景と、実感について語られていますね。
​​​​​​ 山田航の持ち出してきた「昭和」は、実作者にとっても「炬燵」でよかったわけですが、穂村弘よりも8年早く「昭和」に生まれた、今や、老人の目からすると、「炬燵」をめぐる「昭和」的説明の卓抜さには舌を巻きながらも、それは穂村弘の「昭和」では?と言いたくなるのですね。​​​​​​
​ 穂村自身が語る「母親」の解釈も、ぼくの目から見るといかにも「現代的」で、昭和後期、に育った子供たちに対する、「平成」的認識の解釈が施されて語られているような気もします。​
 ぼく自身も50代に母を亡くしました。ちょっと大げさになるかもしれませんが、他に知らないのでいうと、ぼくにとって「母」の死は斎藤茂吉「死にたまふ母」の連作の感じに納得した事件でした。あっちは、まごう方なき「近代文学」なわけで、自分のなかの「近代」性を、再確認させられた事件だったと言っていいかもしれません。まあ、人それぞれなのでしょうが、微妙なズレのようなものがありそうですね。
 ​穂村弘​が現代短歌の歌人である所以が、この辺りにあるような気もしました。
 いやはや、いつまでたっても「日本文学盛衰史」の引用歌にたどり着きません。次回こそは、ということで、ここで終ります。(その2)でした。(その1}はこちらをクリックしてください。じゃあ、また。

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最終更新日  2024.05.24 23:47:05
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