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カテゴリ:読書案内「現代の作家」
保坂和志「この人の閾」(新潮文庫) 保坂和志の「この人の閾」(新潮文庫)を久しぶりに読み返しました。1995年夏の113回芥川賞受賞作です。
学生時代に同じ映画サークルの1年先輩だった女性「真紀さん」の家に、仕事で近所まで来て、偶然時間が空いてしまった「ぼく」が訪ねて行きます。二人で庭の草むしりをしたり、缶ビールを飲んだりして、半日を過ごした日のおしゃべりと、おしゃべりをしながら「ぼく」がふと考えたことが記されている作品です。 P65(新潮文庫版) P75 P77 作品の終盤の光景です。引用していると楽しいのですが、引用をお読みになっても、ここがクライマックスだとぼくが思ったことは伝わらないでしょうね。 この作品が芥川賞を受賞した際に、選考委員だった作家たちの感想から、三人の感想を引用します。 日野啓三 ぼくが、今回、この小説を読み直したのは、古井由吉の評を「書く、読む、生きる」(草思社)で見かけたからです。 「三年後に、これを読んだら、どうだろうか。」 という問いに促されて、25年後に読みなおしました。ぼくには古井由吉がここで言っている「前提」の意味がよく分からないのですが、とりあえず、この作品が発表された1995年の今、ここ。この作品が描かれている時代の「生(なま)の社会」。あるいは、こういう会話をする30代後半の男女が存在しうる場だと考えてみると、それはもうないのかもしれません。 ぼくは、今から25年前に、同時代の同世代の登場人物を描いている作品として「リアル」に読みました。今、これを、当時のぼくと同じように「リアル」と感じる30代の読者がいるとは思いません。しかし、25年ぶりに読み直して思うのですが、この小説はそんなことを書いているのでしょうか。 「言葉が届かないところっていうのは『闇』なのよね。」 という真紀さんの言葉が指し示している『闇』のリアルは、果たして25年の歳月で古びたのでしょうか。 その真紀さんが、数年間の「主婦」の生活でたどり着いた「普遍的な母」の「識閾」の哀しさは古びたのでしょうか。 保坂和志は、その後、「ネコのいる世界」を描きながら言葉の届かない「闇」に言葉の触手を届けようとしつづけているように思いますが、それは、古井由吉が言葉の底にある「記憶」を「言葉」で紡ぎ続けているように見えた晩年の作品に、どこか共通すると感じるのは、読み損じでしょうか。 保坂和志は実に静かに、「新しい文学の可能性」を追い続けているのではないでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.10.26 23:07:23
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