ゴジラ老人シマクマ君の日々
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シマクマ君
シマクマ君のゴジラブログへようこそ。今日は図書館、明日は映画館。あれこれ、踏み迷よった挙句、時々、女子大生と会ったりする。大した罪は犯さない、困った徘徊老人。「週刊読書案内」・「先生になりたい学生さんや若い先生にこんな本どう?」・「映画館でお昼寝」・「アッ、こんなところにこんな…わが街」とまあ、日々の暮らしのあれこれ、いたって平和に報告しています。
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岨手由貴子「あのこは貴族」シネリーブル神戸 若い友人に勧められてみました。ぼくには、最近の日本映画に対して、偏見のようなものがあって、あんまり見ません。 しかし、その友人の
「いや、これはちょっと違いますよ!」
という言葉が決め手になって、出かけてきました。 原作者の小説も知らないし、この監督の作品も初めてなののですが、予告編を見ていたものですから、勝手に筋立てを想像していました。見終えると、ほとんど、そのとおりだったことに驚きました。最後のシーンは、そうはならないと思っていた方で終りましたが、映画そのものに対する印象はさほど変わりませんでした。 ここからは、「過去」しか考えるための杖を持たない65歳を過ぎた老人のたわ言だと思ってお読みいただきたいのですが、いちばん衝撃的だったのは、この映画で「貴族」と呼ばれている人たちの下品さでした。貴族の令嬢、門脇麦さんの姉や母たち、嫁ぎ先の姑である高橋ひとみさんの、とても貴族とは思えない「ことば」と「行動」の品のなさは、ぼくにとっては異様でした。 演出はこれらの女性群の中で、門脇麦さんが演じている末娘榛原華子の「自立」とかを描きたかったようですが、そういう演出意図はともかくとして、例えば、高橋ひとみさんの演技そのものに感心しました。人間をこんなふうに薄汚く演じるのは、ちょっとしたことだと思いました。 実在するKO大学が「貴族」的な世界の象徴のように描かれていますが、高度経済成長の最中KO幼稚舎のくじ引き入舎に奔走した似非「セレブ」の「下品さ」が評判になったことがあります。あの結果が高良健吾君が演じている青木幸一郎なわけで、エリートで秀才である彼に内実がないのはさほど不思議とも思えませんが、それがなぜ「貴族」的だと描かれるのかとクヨクヨ考えていて思い当たったのは、この映画の題名で使われている「貴族」という言葉はSNS上の隠語のようなものなのではないかいうことです。 そういえば「上流階級」という言葉も流行っているようですが、「貴族」という言い回しが、「歴史性」も「現実性」も、あるいは「人間性」もない、浮遊するコミュニケーション記号として印象操作に使われる、あの「ことば」、まあ、ぼくがブログを書いていて「イイネ」がうれしい、あれなんだということです。 というわけで、この映画は、KO大学を続けることができない実家の貧困も、水商売も、起業も、松濤という地名も、医者の娘であるセレブも、玉の輿の結婚も、ついでにいえばヴァイオリニストも、ベイエリアのマンションも、イメージでしかない「空虚」な記号化された現在を描いた映画だったのではないでしょうか。 印象に残るシーンが二つありました。 ひとつは水原希子さんが演じる時岡美紀と山下リオさんの平田里英という、田舎者コンビが「ニケツって久しぶりに聞く」と言って、自転車に二人乗りする場面です。 もうひとつは、自分が暮らす世界の空虚に気付き始めた門脇麦さんが橋の上で、向うの橋の上ではしゃいでいる見ず知らずの人に手を振って、振り返される場面でした。 それぞれのシーンは空虚な「現在」に「過去」と「未来」を導入するべく描かれていて、ぼくにも「リアル」を感じさせたのですが、何か引っかかるものがありました。 この映画では「お金持ち=貴族」出身の代表として榛原華子が相良逸子とタッグを組み、「地方出身の貧乏人」の代表として時岡美紀と平田里英の二人が組みます。 それぞれの二人が、それぞれの社会から疎外されていて、それぞれが発見した「自分らしさ」に正直な生活を生きようとしている、至極真っ当な青春ドラマなわけですが、引っかかりの理由は、それぞれの背景にある社会の描き方が、ぼくの目には「類型」ないしは「パターン」でしかないことです。 登場する男性に関しては、全員が、ただの「カス」な奴であることはすぐにわかりますが、女性たちも「カス」さにおいては負けてはいません。要するに、全員が、同じ「パターン」でキャラクター化されているわけです。引っかからないわけにはいかないでしょう。世の中が、そんなにべったり同じパターンなはずがないじゃないですか。 そんなふうに苛立ちながら、一方で、ひょっとすると、ぼくが「パターン」だと思う社会認識こそが、若い人達にとっては「リアル」な社会そのものとして受容されているのではないかという、なんともいえない不気味さも、また、感じるわけです。 原作がそうなのか、映画がそうなのか、よくわかりませんが、映し出される、それぞれの家族の描き方を見ながら、1960年代から70年代に、いや、もっと古かったのかもしれませんが、描かれた「上流社会」の「家庭=ホーム」ドラマを思い出しました。 父親が会社の重役で、娘が、結婚話や就職を機に、その家庭から自立に目覚めるというパターンだったと思いますが、何となく似ているという感想です。 ただ、決定的に違うのは、それらの作品では「戦後」であるとか、「経済成長」であるとかの、背景にある社会が「家族」にあったはずの「価値観」や「アイデンティティ」をなし崩しに壊していく流動感が、ドラマの哀しさを支えていたと思うのですが、この映画にはそれが感じられないところでした。 どうしてこんなふうに描くのかという、なんともいえない問いが、妙にわだかまった映画でした。 鑑賞の付録にこんな絵ハガキがついていました。ぼくは、えらいカン違いをしながらこの映画を見たのかもしれないと思ったのですが、まあ、しようがないですね。 監督 岨手由貴子 原作 山内マリコ 脚本 岨手由貴子 撮影 佐々木靖之 美術 安宅紀史 音楽 渡邊琢磨 キャスト 門脇麦(榛原華子) 水原希子(時岡美紀) 高良健吾(青木幸一郎) 石橋静河(相良逸子) 山下リオ(平田里英) 佐戸井けん太 篠原ゆき子 石橋けい 山中崇 高橋ひとみ 津嘉山正種 銀粉蝶 2021・03・08シネリーブルno87
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