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カテゴリ:読書案内「現代の作家」
週刊 読書案内 宇佐見りん「推し燃ゆ」(河出書房新社) 話題沸騰の宇佐見りん「推し燃ゆ」(河出書房新社)です。書店ではピンク色のカヴァーで平積みされていましたが、カヴァーをとった姿はこんな感じです。
これが派手なカヴァーです。 2020年の下半期、冬の芥川賞です。書き手の宇佐美りんさんが21歳の大学生であるということで、かなり盛り上がりました。 「かか」(河出書房新社)というデビュー作が前年、2019年の「文藝賞」(河出書房新社)、「三島賞」(新潮社)をとって、二作目の「推し燃ゆ」(河出書房新社)で「芥川賞」でした。 「かか」を読んで、「あれれれ!」という感想で、「それじゃあ「推し燃ゆ」も」というわけで、友達に借りて読みました。 図書館も順番待ちが半年先の雰囲気で、通販の古本も、値段が高止まりで、ああ、どうしようかと思っていると、まあ、本読みともだち(?)である友人が「面白いよ」といいながら貸してくれました。 「『推し』ってなんのこと。ああ、それから『燃ゆ』も。」 「読めばわかるよ。」 まあ、あっさりそういわれて読みましたが、貸していただいた本にカヴァーがなかったので、上の写真になりました。 読み始めると、とりあえず「推し」についてはこんな風に書かれていました。 「アイドルとのかかわり方は十人十色で、推しのすべての行動を信奉する人もいれば、よし悪しがわからないとファンと言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品には興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人、お金を使うことに集中する人、団同士の交流の好きな人。 推しを始めてから一年が経つ。それまでに推しが二十年かけて発した膨大な情報をこの短い期間にできる限り集めた結果、ファンミーティングの質問コーナーでの返答は大方予測がつくほどになった。裸眼だと顔がまるで見えない遠い舞台の上でも、登場時の空気感だけで推しだとわかる。(P32) 世間の動向に疎い60代後半の老人にも「推し」という言葉の意味が「名詞」としては動詞として使われている「推す」の対象を指し、知っている言い方で言えば「アイドル」を指すことは理解しました。で、「推す」ことに熱中することを「燃ゆ」という古典的言い回しで表現したのが本書の題になっているようです。 まあ、間違っているのかもしれませんが、まずは、第1関門クリアというところなのですが、こうやって主人公のあかりちゃんがブログ上、ないしは自己告白として記している文章を写しながら、不思議なことに気づきました。 高校2年生のこの少女は、とても端正な文章の書き手だということです。これはいったいどういうことでしょう。 本当にそれがあるのかどうか、よくわかりませんが、「推し文化言語」というものがあるとして、作家はその文化の中に暮らす少女を描き、その文化の中の意識や心情、行動を書き込んでいます。しかし、彼女の文体そのものは、まあ、こういうとほめすぎになるかもしれませんが、近代文学で繰り返し書かれてきた告白体小説と、とてもよく似ているのです。 もう私は、属目の風景や事物に、金閣の幻影を追わなくなった。金閣はだんだんに深く、堅固に、実在するようになった。その柱の一本一本、華頭窓、屋根、頂きの鳳凰なども、手に触れるようにはっきりと目の前に浮んだ。繊細な細部、複雑な全容はお互いに照応し、音楽の一小節を思い出すことから、その全貌を流れ出すように、どの一部分をとりだしてみても、金閣の全貌が鳴りひびいた。(三島由紀夫「金閣寺」新潮文庫P30) どうです、あんまりな引用に、びっくりなさったでしょうか。三島由紀夫の「金閣寺」の第1章の末尾、主人公の青年が「金閣寺」に鳴り響く音楽を見出した瞬間の描写です。 「金閣寺」は今や古典ですが、考えてみれば1956年に書かれた「推しモユ」小説と言えないこともないのではないでしょうか。 で、上の引用は二つの作品の「推し」のありようについて「推し」ている当人の告白なのですが、なんだかよく似ていると思いませんか。 両方「推しもゆ」小説だとして、三島の作品では「金閣」が、宇佐見りんの作品では「アイドル・タレント」が、「推し」の対象です。 で、二つの作品は、本来、客体であった「推し」に対して「どの一部分」を取り出しても「全貌」が自分の主体の中に入ってくるというふうで、とてもよく似ています。 宇佐美りんの場合は対象が人間なので、その「意識」や「感受性」の主観への取り込みという形になっていますが、三島由紀夫が駆使しているい音楽のメタファーを当てはめても、さほどの違和感はありません。 ここで、もう一度、「これはどういうことなのでしょう?」と思うわけでした。 で、最後まで読んでみて、それぞれの作品の結末を比べてみると、金閣は焼けて、アイドルは普通の男性に戻ります。で、「燃えて」いた主人公はどうなるかというわけです。 私は膝を組んで永いことそれを眺めた。 有名(?)な結末です。実際に金閣に火をつけた小説のモデル、林養賢という人物は現場で自殺を図ったうえでとらえられたようですが、小説の主人公は「推し」を失いながら「生きる」ことを決意します。 で、所謂「ネタバレ」でしょうが、こちらが宇佐見りんの「推し燃ゆ」の結末です。 綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。空のコーラのペットボトルをひろう必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える。 この小説は「推し」に「燃え」た結果、高校を中退した18歳の「あかり」ちゃんの語りなのですが、その語りの文章は、ある端正さで維持されており、金閣寺の主人公の語りが作家の文体そのままの文章であることと共通しています。 この相似性のなかに、「推し」というハヤリ現象を題材にしながら、小説書くという意識において「三島由紀夫」や「中上健次」のあとを歩こうとしている匂いを感じるのですが勘違いなのでしょうか。 異様にたくさん、あちらこちらで見かけるこの作品についてのレビューのなかに、「発達障害」という病名に関わる話題がたくさんありました。主人公の少女の診断書の件りが作品の中にありますから、話題になることは予想できますが、実は三島の作品でもモデル人物の精神障害が、当時、話題になったようです。三島が作品を発表したのは、その人物が結核と精神障害の悪化で、服役中に亡くなった直後のようです。 あてずっぽうですが、「金閣寺」も「推し燃ゆ」も、病者を描いた作品ではないと思います。ちょっとたいそうないい方になりますが、思想であれ美であれ、まあ、恋愛でもあこがれでもですが、精神性の純化の結果引き起こされる「反生活」的な事象を「病気」として解釈するところに、芸術は成り立たないのではないでしょうか。 「推し燃ゆ」は、今どき珍しい、れっきとした文学だと、ぼくは思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.10.12 00:26:48
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