アレハンドロ・ランデス「MONOS 猿と呼ばれし者たち」元町映画館
目隠しをした少年たちが、いや少女もいるようですが、サッカーのような遊びに興じています。ボールの代わりに蹴られているのが何なのかは、画面が暗いこともあってよくわからないのですが、見事に標的に命中して、カメラが周囲を映し出すと、彼らが遊んでいる空間がとてつもなく広大な自然の果てのような場所であることが映し出されていきます。
「な、なんなんだこれは?」
映画が始まって、最初にそう思いました。
映画はアレハンドロ・ランデスというコロンビアかアルゼンチンの監督の「MONOS」という作品で、元町映画館のモギリの少年に教えられてみました。
やがて、その広大な風景はアンデスの高地であるらしいこと。彼らは、反政府武装ゲリラ組織の大人たちに武装訓練されながら集団生活を送る十代の少年、少女たちで、互いに「あだ名」で呼び合う、あたかも「遊び仲間」であるような関係であること。彼らの通称がモノス(猿)であり、組織から派遣されている、それこそ、原人のようなメッセンジャーの兵士が、彼らを暴力的に指導していること。米国人らしい、博士と呼ばれている女性の監視が彼らの、今のところの、任務であるらしいこと。南米のどこかの国の内戦の一つの断面を描いていること。
何となく、そんなふうに映画の輪郭が浮かび始める中で、少年たちを支配しているのが、一つは「子どもの遊びの論理」のようなのですが、もう一つ「命令」と「服従」と「規律」いう「軍隊の倫理」をたたき込まれつつあり、「敵」か「仲間」か、「敵」は殺せという「戦場の論理」を、自動小銃をおもちゃにしながら「子どもの感覚」で身に着けつつあるという、危なっかしさが画面に漂い始めます。
映画の始まりに彼らが共有していたはずの無邪気さが、映画の進行に従って、無邪気であるからこそ陥らざるを得ない閉ざされた関係を予感させはじめますが、映画は予感の通りに進行し、いや、予感以上の悲劇的な結末を迎えます。
展開を追いながら、フト、思い出した言葉は、50年前の連赤事件でハヤリ言葉になった「総括」でした。「子どもたち」は自分たちを縛る約束・掟に閉じ込められた「内閉的な集団化」、いじめの集団のあれです、していくわけで、やがて組織の指導者も「敵」として抹殺し、裏切り者を徹底的に追及することで自壊していく道へとなだれ込んでいきます。
この集団と行動をともにしていた、ただ一人の大人であった女性捕虜が、集団の変質と危険性に気づき、必死で逃亡するシーンは、異様にリアルでこの作品の見どころの一つだと思いました。 結果的に、上のチラシの冒頭のシーンで目隠しのまま、無邪気に遊んでいた少年たちのシーンは「目隠しのまま」無邪気な殺し合いを始めてしまい、収拾がつかなくなる結末を暗示していたわけで、「総括」にゴールがないのは50年前に終わったことではないことを実感させた映画でした。冒頭シーンはとても美しくていいシーンなのですが、悲劇の暗示だったわけです。ただ、恐ろしいのはこの少年たちは自分たちが悲劇を演じていることに気づけないわけで、それが見ていて異様にしんどい理由のひとつでした。
コロンビアで1964年から半世紀つづいた内戦の断面を描いた作品のようですが、人間集団の暗いリアルを描いたゴツイ作品だと思いました。
監督のアレハンドロ・ランデスの次作を期待して拍手!でした。それにしても、明るい気持ちにはなれない映画でした。まあ、そこを描けばそうなるわけで、しようがないのでしょうね。
監督 アレハンドロ・ランデス
脚本 アレハンドロ・ランデス アレクシス・ドス・サントス
撮影 ヤスペル・ウルフ
編集 ヨルゴス・モブロプサリディス
音楽 ミカ・レビ
キャスト
ランボー( ソフィア・ブエナベントゥラ)
ウルフ(フリアン・ヒラルド)
レディ(カレン・キンテロ)
スウェーデン(ラウラ・カストリジョン)
スマーフ(デイビ・ルエダ)
ドッグ(パウル・クビデス)
ブンブン(スネイデル・カストロ)
ビッグフット( モイセス・アリアス)
博士(ジュリアン・ニコルソン)
メッセンジャー(ウィルソン・サラサル)
2019年・102分・R15+
コロンビア・アルゼンチン・オランダ・ドイツ・スウェーデン・ウルグアイ・スイス・デンマーク合作
原題「Monos」
2021・11・24‐no115元町映画館(no105)