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カテゴリ:読書案内「社会・歴史・哲学・思想」
100days100bookcovers no64 64日目
小林公二『アウシュヴィッツを志願した男 ポーランド軍大尉、ヴィトルト・ピレツキは三度死ぬ』講談社 KOBAYASIさんが『あしたのジョー』を採りあげてから、ずいぶん日にちが経ってしまいました。遅くなってすみません。『あしたのジョー』は、TVアニメで見ていました。原作者高森朝雄こと梶原一騎の原作アニメをあのころいっぱいみていたことを今回初めて気が付きました。格闘技はあんまり好みでなかったのですが、これはその中では哀愁とか影があって一番気になっていました。最終回があっけなくて、録画機なんてなかったあの頃、(えっ、これで終わり?)と思ってよく理解できずに不完全燃焼感がその後も残っていました。それで、近くの古本屋で偶然見つけた漫画文庫12巻を今回揃えてしまいました。けれど、もう歳ですね。字が小さくて読めません。みなさんはまだ大丈夫ですか この後の本はいろいろ思いつきすぎて、迷っているうちに収拾がつかなくなってしまいました。ジョーゆかりの「泪橋」で、映画喫茶「泪橋ホール」を経営しているカメラマン多田裕美子さんのフォトエッセイ『山谷 ヤマの男』(筑摩書房)や最近出た牧村康正の『ヤクザと過激派の棲む街』(講談社)とかも思いつきました。「泪橋ホール」という小さな映画喫茶はとても興味深くて、ネットでもいくつも紹介されています。この小さな写真集のオトコたちも魅力的です。でもまだ気持ちが固まりません。 KOBAYASIさんが壮絶に戦い続けるジョーを「丈にとって「戦う」ことは生きることと同義だった」と書かれていたところから「懲りずに戦う」というテーマかなって思いました。あんまり読んではいない「戦い続ける」作品の中で思い浮かぶものを探すとすると。脱獄ものか、隠れキリシタンのアイヌの少女が日本を脱出してたくましく生きる『ジャッカ・ドフニ』とか。 あー、そういえば、こんな人がいたことに驚きと感動を覚えたノンフィクションがありました。ファシズムと「懲りずに戦った」稀有な男の生涯をたどった作品にします。 『アウシュヴィッツを志願した男 ポーランド軍大尉、ヴィトルト・ピレツキは三度死ぬ』小林公二 講談社 2015年5月発行。 著者は、ポーランド国内の絶滅収容所に20回以上通い、平和研究を専門とする大学教員で、日本ポーランド協会の事務局長を務めたこともあると、奥付にあります。 悪名高いアウシュヴィッツ収容所(第一アウシュヴィッツ収容所とビルケナウの第二収容所の両方の総称)には130万人が移送され、およそ110万人がここで殺され、生き残った人はわずか7000人にすぎない。こんな邪悪な所に、自ら志願して潜り込み諜報活動をして、収容所内部の様子を報告し、あまつさえ脱獄に成功した英雄が実在したとは、これを読むまで全く知りませんでした。祖国解放、独立と自由のために戦ったポーランドの軍人ヴィトルト・ピレツキの生きた足跡を彼の二人の遺児(二人とも80歳を越えている)のインタビューを交えて活き活きと、手に汗握るサスペンスのようなフィクションだと思いました。また、過酷なポーランド史もわかりやすく描き出されているのですが、よく知らなかった私はかなりてこずりました。 ピレツキは1901年に生まれました。この時代ポーランド、リトアニアあたりはロシアに支配されたかと思うと、ドイツに占領され、ドイツ軍が敗退すると、ソ連赤軍が侵攻してくるという時代です。その影響を受けて、彼の一家も先祖伝来の土地を離れざるをえなくなって、転々とします。 少年のころより愛国心強く、10歳代で軽騎兵隊員となり強盗団や赤軍と戦います。(1918年独立回復。ちなみに初代元首ユゼフ・ピウスツキの兄ブロニスワフ・ピウスツキは流刑地サハリンでアイヌ研究をし、チュフサンマという名の女性と結婚し子どもももうけています。西木正明の『間諜二葉亭四迷』(講談社文庫)はそのことも題材にしてフィクションにしています。ポーランド独立のための対ロシア工作を日本と連携しようとしていたとのアイディアです。また、去年の直木賞の『熱源』(文藝春秋)もブロニスワフとチュフサンマのことを取り上げていたと思います。)その後彼は帰郷して美術や農業を学び地域コミュニティを再建する活動に携わりつつ軍人としてのキャリアを積み上げます。小学校再建のボランティアで知り合った教師のマリアともこのころ結婚して二人のこどもにも恵まれます。 しかし、39年にはナチス・ドイツとの戦争が勃発し、ピレツキの騎兵隊は敗退します。一方東からは、ソ連がポーランドとの不可侵条約を破棄して侵入し、20万人の将校兵士が捕虜として連行されました。(後にカティンの森で遺骸となって発見される人々)大統領はルーマニアで身柄を拘束されたために、パリに亡命していた上院議長を後継に指名し、パリを拠点とした亡命政府を誕生させます。(その後ロンドンに移転。)ピレツキは信頼できる人々とポーランド秘密軍(TAP)を創設。ワルシャワなどの主要都市での諜報、武器の貯蔵、保管などを主とする地下組織で活動します。 翌40年6月、オシフィエンチム(ドイツ名アウシュヴィッツ)にポーランド軍捕虜収容所が作られ、ポーランド兵士が収容されました。ピレツキの仲間もその中にいました。TAP内ではこの収容所の実態を明らかにするために、誰かが潜り込むことが必要だと考えました。そこでピレツキが偽名を使い、わざとゲシュタポの人狩りで連行され収容されることにしました。 計画通り、40年9月21日に彼はアウシュヴィッツに移送されました。そのときの詳細な記録が『ヴィトルト報告』として残されています。ご存じのように、収容者のおかれた恐ろしく邪悪で不条理な状況は読むのが辛くなります。しかし、ここではピレツキのことに絞ったいくつかのことを上げます。 ピレツキがアウシュヴィッツに潜入した目的は4つでした。 1 収容所内に地下組織を作ること。 ピレツキが最初にしたのは組織作りです。まず、5人で1ユニットの最小単位を作り(通称ファイブ)、それをアメーバのように広げます。一つのファイブが摘発されても他のファイブに危険が及ばないようにするために、各ファイブは他のファイブの存在を全く知らないというのが原則だそうです。すでに親しい二人の同志がアウシュヴィッツに収容されていたので、最初のファイブはすぐにできました。収容所内のそれぞれの労働場所にファイブを作りました。この地下組織を通じ入手した情報は、早くも10月下旬に釈放者を通じて11月初旬にはZWZ(武装闘争同盟)司令部に届けられました。(家族からの送金をSSに掴ませて釈放されたり、赤十字を通じて釈放されることはあったようです。)地下組織は、ばらばらなままふえていきます。 そして41年12月にとうとう、ばらばらな地下組織をまとめる極秘のミーティングを成功させました。監視のSSがクリスマスイブにオフィスで酒盛りをしているすきをねらいました。ばらばらなファイブとは、軍事組織同盟、社会主義者、民族主義者、穏健派など思想や収容前の帰属母体が異なるから、相容れないのですが、この時は、反ナチス・アウシュヴィッツ解放ということでスムーズに意見を合わせられました。委員会を設置することと委員会のメンバーを決めました。その後、裏切り者は出ず、相互理解や協力も実現し、地下組織の拡大はこの後も続きます。その後、秘密裡にラジオの送信機を作り、ナチスにばれるまでの間、収容所から深夜に放送もしました。また、元はポーランド軍将校だったSS武装隊員が、地下組織に極秘情報をもたらすこともあったそうです。 しかし、潜入目的4の「外からのアウシュヴィッツの攻撃、解放」はいつまでも動きはないままで、とうとう彼はポーランド国内軍幹部に直接会って収容所救出作戦を促そうと脱走を決意します。(実際脱走はあったようです。収容所閉鎖までに802人の収容者が脱走を試み、約300人が成功しているそうです。 SSのヘス所長専用高級車を使ってみごとに脱走した人の話は、TVドキュメント『逃亡者―もっとも勇敢な男たちのアウシュヴィッツ脱走―』としてポーランドで放送されたそうです。)ピレツキは二人の仲間と43年4月27日に脱走しました。 命がけの脱走と逃避行の末、司令部に接触します。ピレツキ自身は亡命政府からの賞賛と勲章授与の知らせを得るも、ワルシャワ国内軍も亡命政府のあるイギリスも動きません。このころ一度だけ家族に会いますが、また対ソ連諜報活動とアウシュヴィッツの仲間の家族へのサポート活動に戻ります。 翌44年、ソ連の呼びかけと見せかけの援軍でワルシャワ蜂起が起きます。ピレツキも諜報活動の大尉としてでなく、志願兵として参加し、まもなく指揮権を委ねられ死闘をつづけます。が、ソ連軍や西側の支援はほとんどなく、ポーランドの国内軍やワルシャワ市民軍は見殺しにされて降伏。ピレツキはドイツ軍にまた逮捕されます。今度はムルナウの収容所ですが、アウシュヴィッツとは雲泥の差だったようです。翌45年4月28日アメリカ軍によって解放されます。 一方、祖国ポーランドはソ連の傀儡政権となり、ソ連のNKVD(内務人民委員部)に倣って、治安、スパイ組織網を作り上げていました。社会主義ポーランドは、亡命政府やそれに与していた人々を排除し、非合法化していきます。元国民軍兵士たちは、組織が切断されて行き場を失い、逮捕されれば収容所送りか、シベリア流刑、処刑が待っていました。彼らは、森に逃げ込み、新たな対共産主義パルチザンを森で組織するか、もしくは転向して体制側の秘密警察の活動に加わるかしかない事態になりました。(アメリカに行った人も多いですよね。) ピレツキは、ポーランドのソ連からの解放のためにイタリアの亡命政府第二師団(ここは国外の唯一の亡命政府軍)のアンデルス将軍とともに戦います。ソ連が39年から41年の間、ポーランドで行った残虐行為や不法逮捕などに関する証拠を収集し続けます。その詳細な情報「謀略レポート」を亡命政府第二師団におくりました。 しかし、社会主義ポーランド政府にとってピレツキの情報収集は国家反逆であり、逮捕命令が出されました。その後の時系列を記します。3度収容された人ですが、このときがもっともひどかったようです。 公判のとき、初めて家族との短時間の接見が許されたとき、彼は妻に「ここでの拷問に比べれば、アウシュヴィッツなど子どもの遊びだ」と呟いたとのこと。 47年5月8日 ポーランド公安省により逮捕。 この文章を書いてきて、最後にいっそう混乱してきました。祖国や同胞のために果敢に戦った男が、体制が変化した祖国にとっては排除すべき異物とみなされてしまったということ。彼は新しい体制のためには生け贄にされなければならなかったのか?実質ソ連の支配下にあるから仕方なかったのか? 社会主義国家が民主化してから、この30年余り、それらの国々で非公開だった文書が日の目をみることになり、誤った判断を認め名誉を回復された多くの人の中の一人、ヴィトルト・ピレツキのことを読みながら、ポーランドの歴史の過酷さを思い知らされました。若いころに観た最後のシーンが忘れられないアンジェイ・ワイダの『地下水道』、去年観た『異端の鳥』など、実はどこかで見ているのに、他人事としてしかとらえていなかったと気づきます。 『我々の手で、我々自身の英雄を抹殺してしまったのだから』このポーランド司法の90年の言葉を支える厳しく己を見る視線。この目は、敵対する他者目線を内面化しているからなんでしょうね。戦うことを避けてきた私にはこれがありません。でも、体制を壊さない、変えない日本という国もそうなんじゃないのかな?日本にも名誉回復すべき人がいるのに、「過去は水に流して」、「何を今さら」と言われそうです。 今回も、あちこちに思いが散ってまとまらず、読みにくいかと思います。このあたりでご容赦願います。SIMAKUMAさん待ちくたびれたと思います。すみませんでした。また、よろしくお願いいたします。 追記 写真のキャプチャです。3人で写っている写真は、アウシュヴィッツから脱獄逃走した仲間です。キャプチャをあとから入れる方法が分からなくて困ってて(-_-メ)E・DEGUTI2021・03・27 追記2024・04・01 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.04.04 13:23:26
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