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カテゴリ:映画 香港・中国・台湾の監督
グー・シャオガン「春江水暖」元町映画館
グー・シャオガンという中国の若い映画監督の「春江水暖」という映画を見たのは、昨年(2021年)の3月の中頃でした。2019年の暮れだったでしょうか、29歳で自ら命を絶った、フー・ボーという若い監督の「象は静かに座っている」という作品を見て圧倒されましたが、この映画も、負けず劣らず印象的でした。 グー・シャオガンとフー・ボー。二人は、ともに1988年生まれで、北京電影学院で「映画」を学んだ同窓です。 フー・ボーの作品を見ながら、もう数十年も昔に「ぼくもそうだった!」という共感と、主人公とともに、北のはての動物園の檻の中で静かに座っている象に会いに行こうとしながら、ためらう老人に、今、現在の自分の姿を重ねるという、幾分哀しい、重層化したリアルを味わったのですが、グー・シャオガンのこの作品「春江水暖」では、「家族」というくくりではよくあることなのかもしれませんが、 いつか同じ「時間」を共有した人間 が、それぞれ違う「時間」の中で暮らしながら、ある時、ふと、同じ時間の中に戻ってくる体験、それは普通、誰かの葬儀とか結婚式とかで感じざるを得ない「時間」との出会いなのですが、その時の意識の感触は、いわゆる「記憶」とか「思い出」とは少し違うとぼくは思いますが、そんなふうな、また別の重層的な時間の世界がえがかれていました。 映画の中では、老齢の祖母の長寿のお祝いに集まった「家族」のそれぞれの肖像が重ねられる様子を見ながら浮かびあがってくる、「過去の時間」との出会いと、青年の長い長い遊泳シーンと、それを岸にそって追いかける女性という、ぼくにとっては、この映画の記憶として残るに違いない「二人の今の時間」を、出会っている自覚などもちろんないまま、まさに、生きている様子として、対比的に描かれていることに深く納得しました。 人が生きるという経験の中には、「時間」が重層化、あるいは多層化して流れていて、その時、その時の「時間」が、それぞれ流れている複数の空間を孕んでいるわけですが、一人一人が自分の世界として生きている、この重層化した個々の時間の世界を、実の自然の中に溶かし込んでいくかに見える映像の不思議をつくりだしているグー・シャオガン監督に、驚嘆の拍手!でした。 映画を見て、思い出したのが張若虚という初唐の詩人の「春江花月夜」という長詩です。まあ、題名の類似で「そういえば!」と探したにすぎませんが、面白いと思いました。 「春江花月の夜」 張若虚 いかがでしょうか。白文と口語訳はいずれ追記で記したいと思います。 監督 グー・シャオガン 脚本グー・シャオガン 撮影 ユー・ニンフイ ドン・シュー 音楽 ドウ・ウェイ 芸術コンサルタント メイ・フォン キャスト チエン・ヨウファー(ヨウフー) ワン・フォンジュエン(フォンジュエン) ジャン・レンリアン(ヨウルー) ジャン・グオイン(アイン) スン・ジャンジェン(ヨウジン) スン・ジャンウェイ(ヨウホン) ドゥー・ホンジュン(ユーフォン) ポン・ルーチー(グーシー) ジュアン・イー(ジャン先生) ドン・ジェンヤン(ヤンヤン) スン・ズーカン(カンカン) ジャン・ルル(ルル) ムー・ウェイ(ワン) 2019年・150分・G・中国 原題「春江水暖」・「 Dwelling in the Fuchun Mountains」 2021・03・15‐no23元町映画館no142 追記2022・08・17 書きあぐねていた感想ですが、備忘録の意味もあるので、なんと書き終えてブログにのせました。 引用した漢詩の白文は以下の通りです。 「春江花月夜」 張若虚(白文) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.09.28 21:26:58
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