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「引き裂かれたもの」黒田三郎(「黒田三郎詩集」現代詩文庫6・思潮社) 1冊の本を読むということは、なんとなく次の1冊の本のところに連れていかれるということのような気がします。そして、その次の本が現われる。
連鎖していくことばの世界の輪郭が、はっきりわかるわけではないのですが、そこに読み手にとっての小さな世界が広がり始めて、そこで佇んでいることが楽しい。書き手の差し出してくれている世界とは微妙にズレた世界です。何年も続けていると自分なりの境界線が出来てきて、その先は絶壁というようなイメージです。書き手が示唆してくれる場合もありますが、読みながらの想起ということも結構あります。世界はそのたびに膨らんだり縮んだりします。それが、記憶と連動していきます。自分の世界というのも一定ではないのですよね。 「鶴見俊輔、詩を語る」(作品社)という本を読んでいて、本の後半の「鶴見さんの詩心をより深く知るためのアンソロジー」という章にこんな文章引かれていました。 黒田三郎 対談中の話題の注釈なので、これだけ読んでもいただいてもピンとこないとは思うのですが、詩人の黒田三郎がなくなった後、出版された配偶者の黒田光子さんの「人間・黒田三郎」という本の鶴見俊輔による紹介記事からの引用です。 それを読みながら、つまずきました。鶴見俊輔の文章中で引用された黒田三郎の「引き裂かれたもの」という詩が途中で省略されていたのです。 気になって、しようがないので、「黒田三郎詩集」(現代詩文庫6・思潮社)を引っ張り出して写しました。 引き裂かれたもの 黒田三郎 鶴見の「これは新聞と地続きである詩、というよりも新聞記事の中におかれた詩のように思われた。」という評の意味については、まあ、ゆっくり考えることなのですが、やはりこんな詩句には沈みこまされますね。 一人死亡とは新聞やテレビが伝える死者の数につて、初めて引っかかったのは阪神大震災の報道のときでしたが、あれから、同じ疑問を想起させる事故や自然災害や戦争は繰り返し起こっています。 現に、今も、数で伝えようとしているかのコロナ報道やウクライナ報道の最中ですが、ぼくの中では数を離れることが、あの時以来、出来事や歴史を考える時の課題です。 同じ詩集の頃の黒田三郎を考えるには、というので、もう一つ、同じ「渇いた心」という詩集の詩で現代詩文庫の隣にあった作品も写してみます。 ただ過ぎ去るために 黒田三郎 懐かしく読み直しました。「ある時代の詩だ。」とおっしゃる方もいらっしゃるのかもしれません。たしかに、この詩がビビッドに響いてくる時代がかつてあったのですが、本当は、今、この時にも、詩の響きは失われてはいないし、響きに耳を傾ける態度を失ってはならないのではないでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.07.30 08:25:07
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