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カテゴリ:読書案内「現代の作家」
日野啓三「台風の目」(新潮文庫) 日野啓三は1929年生まれで、 2002年、大腸がんで亡くなった作家です。今回案内する「台風の目」(新潮文庫・講談社文芸文庫)という作品は、1990年に肝臓癌が発見されて摘出手術ののち、1992年、大病の予後の生活の凝視を描いた「断崖の年」(中公文庫)ののち書かれた作品です。それぞれ伊藤整文学賞、野間文芸賞を受賞していますが、今時、若い人の中で「この人を読む人いるのか?」どころか名前を知っている人も少ない人のような気がしますが、参加している「本読み会」の課題になるという偶然の機会を得て再読しました。
病後の作家が、自らの来し方を回想するという形で書き起こされる作品ですが、じゃあ「自伝小説」かというとそういうわけでもありません。 父親が暮らした中国地方の田舎町を訪ねるところから始まりますが、そこで思い浮かんだ記憶は、少年時代を過ごした大日本帝国統治下の朝鮮半島の田舎の村、京城での中学時代へとうつろっていきます。 たとえば京城での中学時代、暮らしていた城内という地域で行われていた「冥婚」と呼ばれる民俗行事の記憶がこんなふうに記述されています。 水際で人たちはまた人形に語り掛け、泣いて笑った。人形は大きな動かない目で見かえしている。花婿の黒塗りの紙の冠が、花嫁の原色の紙製の盛装が、外の光で一層濃く鮮やかになった。 ここから作家は、次々と浮かんでくる記憶の光景を巡って、「茫々と」考えこみます。 多くの人たちが持続的に自分の過去を(まるで上空からすっと眺め続けてきたかのように)書いている文章を目にするたびに、私は驚く。深く驚く。単に一般的な記憶力という能力なら人並みのはずなのに、自分自身の過去となると。ありありと濃密にいつでもその場に帰ることができる少数の場合と、概括的に年表的事実のようにしか思い出せない多くの日々に、はっきりと分かれている。つまり私の過去は、無残に切れ切れと隙間だらけだ。 作家の頭の中に浮かんでくる記憶、想起される過去をめぐって、やがて人間が生きている時間が問い直されていく思考のプロセスが、ぼくにはいかにもスリリングなので、長々ですが、引用しました。 で、作家が現実の生活の中でたどり着くのは、今はこの世の人ではない父親のかつての寝姿と声を想起するこんな地点でした。 いきなり背後で父の声がした。 300ページにわたる記憶の記述を続けてきた作家が「つねに甦る現在が少しずつ増えて膨らんで奇妙な球体」としてとらえた「生きている時間」としてとらえた、今、この時の「生」は、書斎の窓から差し込む夕日の光の中に浮かび上がる、机の上や部屋の床に散在している、なんでもない日用品の輝きでした。 ガスのなくなりかけた百円ライター。 上に引用しましたが、「不意に世界の思いがけない感触と出会い溶け合った謎めいた内面の時」が突如現れ出て、「露出した深層の震え」そのものにたどり着いた、今、このときの作家の姿が美しく描かれたラストシーンでした。 病後の作家が、浮かんできた、もう何年の前の父の生前の記憶のなか、死の床の父の声の想起の中でたどり着いた究極の「時間」が、こんなふうに描かれていることに意表を突かれながら、生の実相を描こうとする作家の静かな執念を思い浮かべ、しばし、瞠目の結末でした。 実は、光り輝く身の回りの品々は数ページにわたって、延々と記述されています。その描写に心打たれるかどうか、それは読んでいただくほかありませんが、ぼくにとっては、50代の半ばに読んだ時には気づけなかった、この作家の本領との出会いでした。あるいは、小説という表現形式のたどり着くべき「達成」を感じたというべきでしょうか。 いかにも、彼が、古井由吉や後藤明生と肩を並べる「内向の世代」であることを再確認させる傑作だと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.10.22 11:57:47
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