土井晩翠「星落秋風五丈原」 鮎川信夫「近代詩から現代詩へ」(思潮社)より
星落秋風五丈原 土井晩翠
(一)
祁山悲秋の風更けて
陣雲暗し五丈原
零露の文は繁くして
草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く
鼓角の音も今しづか
丞相病篤かりき
清渭の流れ水やせて
むせぶ非情の秋の声
夜は関山の風泣いて
暗に迷ふかかりがねは
令風霜の威もすごく
守るとりでの垣の外
丞相病篤かりき
帳中眠かすかにて
短檠光薄ければ
こゝにも見ゆる秋の色
銀甲堅くよろへども
見よや侍衛の面かげに
無限の愁溢るるを
丞相病篤かりき
風塵遠し三尺の
剣は光曇らねど
秋に傷めば松柏の
色もおのづとうつろふを
漢騎十万今さらに
見るや故郷の夢いかに
丞相病篤かりき
夢寐に忘れぬ君王の
いまはの御こと畏みて
心を焦がし身をつくす
暴露のつとめ幾とせか
今落葉の雨の音
大樹ひとたび倒れなば
漢室の運はたいかに
丞相病篤かりき
四海の波瀾収まらで
民は苦み天は泣き
いつかは見なん太平の
心のどけき春の夢
群雄立ちてことごとく
中原鹿を争ふも
たれか王者の師を学ぶ
丞相病篤かりき
末は黄河の水濁る
三代の源遠くして
伊周の跡は今いづこ、
道は衰へ文弊ぶれ
管仲去りて九百年
楽毅滅びて四百年
誰か王者の治を思ふ
丞相病篤かりき
鮎川信夫の「近代詩から現代詩へ」(思潮社)で土井晩翠は「明治の詩人」の二人目、トップ・バッターは島崎藤村ですが、二番バッターとして登場します。送りバントがうまい小技の人では、もちろんありません。
紹介、解説で鮎川信夫は、土井晩翠の詩集「天地有情」の序文から引用します。
詩は閑人の囈話に非ず、詩は彫虫篆刻の末技に非ず。詩は国民の精髄なり、大国民にして大詩篇なきもの未だ之あらず。本邦の前途をして多望ならしめば、本邦詩界の前途多望ならずんばあらず。
現在の眼で見れば、滑稽な大言壮語なのですが、この序文の中にこそ、
日清戦争以後、高まりゆく軍国調の世相の中で明治における帝国主義イデオロギーの随一の歌手として、青少年たちに愛唱高吟されたことこそが、詩人の本懐であることが叫ばれている
と喝破しながらも、軍歌、校歌、寮歌のへの、圧倒的な影響力を通して、
戦前の国民感情の形成に大きな役割を果たした
ことを忘れてはいけないと結びます。
ボクが、この「近代詩から現代詩へ」の中で紹介されている、土井晩翠の代表詩の一つである「星落秋風五丈原」という、長編叙事詩を知ったのは、1980年代だったと思います。三国志の時代の歴史的な史話をネタに謳いあげる、長大な(後ろに全文載せておきますが)叙事の風格に強く惹かれたのですが、一方では事大主義的に歴史ロマンを謳う(まあ、嫌いではないのですが)姿勢に辟易する詩でもありました。
鮎川信夫は戦前の国民感情の形成の問題を指摘していますが、戦後民主主義育ちであるはずのボクたちの世代(今、現在、前期高齢者たち)が、小学生の時代から「荒城の月」の「あわれ」に育てられていたことには、生涯、気づかなかったのではないでしょうか。
現代の世相を振り返るとき、土井晩翠的な「国粋主義」が我々のような戦後民主主義世代にも、美しい唱歌のメロディと歌詞によって刷り込まれていたということは、見落としてはいけないという気がします。
まあ、あれこれ考えるの疲れるのですが「星落つ、秋風、五丈原」という詩がどんな詩だったくらいは知っておいていいんじゃないでしょうか。ホームランバッターを目指している詩人だったということがよくわかりますよ(笑)。
(二)
鳴呼南陽の旧草廬
二十余年のいにしへの
夢 はたいかに安かりし
光を包み香をかくし
隴畝に民と交はれば
王佐の才に富める身も
ただ一曲の梁父吟
閑雲野鶴空濶く
風に嘯く身はひとり
月を湖上に砕きては
ゆくへ波間の舟ひと葉
ゆふべ暮鐘に誘はれて
問ふは山寺の松の風
江山さむるあけぼのの
雪に驢を駆る道の上
寒梅痩せて春早み
幽林影を穿つとき
伴は野鳥の暮の歌
紫雲たなびく洞の中
誰そや棊局の友の身は
それ隆中の別天地
空のあなたを眺むれば
大盗競ひはびこりて
あらびて栄華さながらに
風の枯葉を掃ふごと
治乱興亡おもほへば
世は一局の棊なりけり
其世を治め世を救ふ
経倫胸に溢るれど
栄利を俗に求めねば
岡も臥龍の名を負ひつ
乱れし世にも花は咲き
花また散りて春秋の
遷りはここに二十七
高眠遂に永からず
信義四海に溢れたる
君が三たびの音づれを
背きはてめや知己の恩
羽扇綸巾風軽き
姿は替へで立ちいづる
草廬あしたのぬしやたれ
古琴の友よさらばいざ
暁さむる西窓の
残月の影よさらばいざ
白鶴帰れ嶺の松
蒼猿眠れ谷の橋
岡も替へよや臥龍の名
草廬あしたはぬしもなし
成算胸に蔵まりて
乾坤ここに一局棊
ただ掌上に指すがごと
三分の計 はや成れば
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は皆立ちて
蛟龍飛びぬ淵の外
(三)
英才雲と群がれる
世も千仭の鳳高く
翔くる雲井の伴やたそ
東新野の夏の草
南瀘水の秋の波
戎馬関山いくとせか
風塵暗きただなかに
たてしいさをの数いかに
江陵去りて行先は
武昌夏口の秋の陣
一葉軽く棹さして
三寸の舌呉に説けば
見よ大江の風狂ひ
焔乱れて姦雄の
雄図砕けぬ波あらく
剣閣天にそび入りて
あらしは叫び雲は散り
金鼓震ひて十万の
雄師は囲む成都城
漢中尋で陥りて
三分の基はや固し
定軍山の霧は晴れ
汚陽の渡り月は澄み
赤符再び世に出でて
興るべりかりし漢の運
天か股肱の命尽きて
襄陽遂に守りなく
玉泉山の夕まぐれ
恨みは長し雲の色
中原北に眺むれば
冕旒塵に汚されて
炎精あはれ色も無し
さらば漢家の一宗派
わが君王をいただきて
踏ませまつらむ九五の位
天の暦数ここにつぐ
時建安の二十六
景星照りて錦江の
流に泛ぶ花の影
花とこしへの春ならじ
夏の火峯の雲落ちて
御林の陣を焚く掃ふ
四十余営のあといづこ
雲雨荒台夢ならず
巫山のかたへ秋寒く
名も白帝の城のうち
龍駕駐るいつまでか
その三峽の道遠き
永安宮の夜の雨
泣いて聞きけむ龍榻に
君がいまわのみことのり
忍べば遠きいにしえの
三顧の知遇またここに
重ねて篤き君の恩
諸王に父と拝されし
思よいかに其宵の
辺塞遠く雲分けて
瘴烟蛮雨ものすごき
不毛の郷に攻め入れば
暗し瀘水の夜半の月
妙算世にも比なき
智仁を兼ぬるほこさきに
南蛮いくたび驚きて
君を崇めし「神なり」と
(四)
南方すでに定まりて
兵は精しく糧は足る
君王の志うけつぎて
姦を攘はん時は今
江漢常武いにしへの
ためしを今にここに見る
建興五年あけの空
日は暖かに大旗の
龍蛇も動く春の雲
馬は嘶き人勇む
三軍の師隨へて
中原北に上りけり
六たび祁山の嶺の上
風雲動き旗かへり
天地もどよむ漢の軍
偏師節度を誤れる
街亭の敗何かある
鯨鯢吼えて波怒り
あらし狂うて草伏せば
王師十万秋高く
武都陰平を平げて
立てり渭南の岸の上
拒ぐはたそや敵の軍
かれ中原の一奇才
韜略深く密ながら
君に向はんすべぞなき
納めも受けむ贈られし
素衣巾幗のあなどりも
陣を堅うし手を束ね
魏軍守りて打ち出でず
鴻業果し収むべき
その時天は貸さずして
出師なかばに君病みぬ
三顧の遠いむかしより
夢寐に忘れぬ君の恩
答て尽くすまごゝろを
示すか吐ける紅血は
建興の十三秋なかば
丞相病篤かりき
(五)
魏軍の営も音絶て
夜は静かなり五丈原
たたずと思ふ今のまも
丹心国を忘られず
病を扶け身を起し
臥帳掲げて立ちいづる
夜半の大空雲もなし
刀斗声無く露落ちて
旌旗は寒し風清し
三軍ひとしく声呑みて
つつしみ迎ふ大軍師
羽扇綸巾膚寒み
おもわやつれし病める身を
知るや情の小夜あらし
諸塁あまねく経廻りて
輪車静かにきしり行く
星斗は開く天の陣
山河はつらぬ地の営所
つるぎは光り影冴えて
結ぶに似たり夜半の霜
嗚呼陣頭にあらわれて
敵とまた見ん時やいつ
祁山の嶺に長駆して
心は勇む風の前
王師ただちに北をさし
馬に河洛に飲まさむと
願ひしそれもあだなりや
胸裏百万兵はあり
帳下三千将足るも
彼れはた時をいかにせん
(六)
成敗遂に天の命
事あらかじめ図られず
旧都再び駕を迎へ
麟台永く名を伝ふ
春玉樓の花の色
いさをし成りて南陽に
琴書をまたも友とせむ
望みは遂に空しきか
君恩酬ふ身の一死
今更我を惜しまねど
行末いかに漢の運
過ぎしを忍び後計る
無限の思い無限の情
南成都の空いづこ
玉塁今は秋更けて
錦江の水痩せぬべく
鉄馬あらしに嘶きて
剣関の雲睡るべく
明主の知遇身に受けて
三顧の恩にゆくりなく
立ちも出でけむ旧草廬
嗚呼鳳遂に衰へて
今に楚狂の歌もあれ
人生意気に感じては
成否をたれかあげつらふ
成否をたれかあげつらふ
一死尽くしし身の誠
仰げば銀河影冴えて
無数の星斗光濃し
照すやいなや英雄の
苦心孤忠の胸ひとつ
其壮烈に感じては
鬼神も哭かむ秋の風
(七)
鬼神も哭かむ秋の風
行て渭水の岸の上
夫の残柳の恨訪へ
劫初このかた絶えまなき
無限のあらし吹過ぎて
野は一叢の露深く
世は北邱の墓高く
蘭は砕けぬ露のもと
桂は折れぬ霜の前
霞に包む花の色
蜂蝶睡る草の蔭
色もにほひも消去りて
有情も同じ世々の秋
群雄次第に凋落し
雄図は鴻の去るに似て
山河幾とせ秋の色
栄華盛衰ことごとく
むなしき空に消行けば
世は一場の春の夢
撃たるるものも撃つものも
今更ここに見かえれば
共に夕の嶺の雲
風に乱れて散るがごと
蛮觸二邦角の上 蝸牛の譬おもほへば
世ゝの姿はこれなりき
金棺灰を葬りて
魚水の契り君王も
今泉台の夜の客
中原北を眺むれば
銅雀台の春の月
今は雲間のよその影
大江の南建業の
花の盛もいつまでか
五虎の将軍今いづこ
神機きほひし江南の
かれも英才いまいづこ
北の渭水の岸守る
仲達かれもいつまでか
聞けば魏軍の夜半の陣
一曲遠し悲茄の声
更に碧の空の上
静かにてらす星の色
かすけき光眺むれば
神秘は深し無象の世、
あはれ無限の大うみに
溶くるうたかた其はては
いかなる岸に泛ぶらむ
千仭暗しわだつみの
底の白玉誰か得む、
幽渺境窮みなし
鬼神のあとを誰か見む
嗚呼五丈原秋の夜半
あらしは叫び露は泣き
銀漢清く星高く
神秘の色につつまれて
天地微かに光るとき
無量の思齎らして
「無限の淵」に立てる見よ
功名いづれ夢のあと
消えざるものはただ誠
心を尽し身を致し
成否を天に委ねては
魂遠く離れゆく
高き尊きたぐいなき
「悲運」を君よ天に謝せ
青史の照らし見るところ
管仲楽毅たそや彼
伊呂の伯仲眺むれば
「万古の霄の一羽毛」
千仭翔る鳳の影
草廬にありて龍と臥し
四海に出でて龍と飛ぶ
千載の末今も尚
名はかんばしき諸葛亮